造花街・吉原の陰謀

09:裾引きに散る色彩

「あの、どうしてここに?」
「終夜くんに頼まれたら、嫌とも言えなくてね」
「頼まれたって、何を?」
「立派な花魁に仕上げてほしい人がいるって。私はこの妓楼で髪結いをしていたんだよ。随分前に引退したけれど」
八千代(やちよ)さん。準備が出来ました」

 男の声に八千代と共に振り向けば、布の上に並んだ飾り切れない程の簪や櫛。色とりどりの化粧品に大きさの違う筆。それから、衣桁(いこう)にかけてある真っ白な着物が明依の目に飛び込んできた。

「……もしかして、これを私が着るんですか?」
「ええ、勿論。さあ、準備をしましょうね」
「はい……、いやでも、私には……」

 着物に恐縮する気持ちを持ったのは自分が初めてではないと信じたい。明依は完全に怖気付いていた。その着物は、明らかに自分の身の丈に合ったものじゃないと確信していた。誰が見ても明らかに立派な着物を着て、大夫でもない人間が花魁道中の最中に失敗でもすれば笑い者だ。
 八千代は戸惑う明依をよそに立ち上がって着物の側まで歩くと、まるで慈しむ様な優しい表情を浮かべて衣桁にかかった着物に触れた。

「本当に、久しぶり。あなたにもう一度だけ、あの場所に戻ってほしい。そのお手伝いをさせてちょうだいね」

 『もう一度』というのは、以前にもこの着物を誰かが着たという事なのだろうか。明依がそんなことを考えていると、八千代は明依に向き直った。

「どんな着物にも、こうやって話かける様にしているの。そうすると本当に着付けがすんなりとうまくいくのよ。きっと、着物にも心があるんだろうね」

 八千代が自分の祖父母以上に年齢が離れているからだろうか。そういう八千代のいう事には信憑性があるような気がした。
 明依が衣桁に飾られた白い着物をぼんやりと見ていると、八千代が小さく笑った。

「おかしな話だと思う?」
「いえ、とっても素敵だと思います」
「それじゃあ、私を信じてちょうだいな。この着物はもう一度だけ日の目が見たいと言ってる。他の誰でもない、あなたと一緒に」

 八千代の言葉に、ドクドクと心臓が高く鳴っている。それはほとんどが緊張から来るものだ。しかしその高鳴りのごく一部では、心が躍っている。

「さあ、こっちに。きっとよく似合うから」

 八千代は嬉しそうに笑って着物を手に取った。いつの間にか座敷の中には八千代と明依の二人きりになっていた。シンと静かな座敷の中で、明依は八千代の前まで歩いた。

「あの……よろしくお願いします」

 明依は八千代にそう言って頭を下げた。同時に八千代が心があると信じる着物に向けても言ったつもりだ。しかしどこか気恥ずかしい気持ちになる。何も言わずに笑っている八千代には、おそらく全てバレているのだろうが。
 八千代の持っている着物からは、花を集めた様な香りがする。

「世の中にはたくさんの色があるけれど、その中でも白は一番たくさんの顔を持ってる。太陽の温かさ、月の冷たさ。曇天の静けさ、灯篭の仄暗さ。人間が息を吸うように様に着物は周りの色を吸い込んで、違う雰囲気を見せて表現してくれる。でもこの着物はきっと、暖かな色が好きだろうから。雨が止んでよかった」

 そういえば朝は雨が降っていたっけ。先ほどまでそれで心底嫌な気分にさせられていたというのに、そんなことはすっかり忘れていた。そんな事を考える明依をよそに、八千代は手早く着物の着付け終わらせた。それから明依が全身を確認するより前に座る様に促して、たくさんの化粧品の中から明依の顔や着物と見比べて色を選び、化粧を施していく。目を閉じて、八千代に全てを任せていた。
 満月屋にも髪結いはいる。基本的には化粧は自分でするので、誰かに化粧をしてもらっている現状に違和感がある。どうして終夜はわざわざ元従業員を連れてきたのか。

「正直に言うとね、終夜くんにこれほど見る目があるなんて思わなかった。本人には内緒にしておいてね」
「私たちはそんな仲じゃありません。本当はあの時だって……」

 そう言っておいて、明依は口をつぐんだ。蕎麦屋の二階で男女が何をしているかなんてわかり切った事だろうし、それを自ら持ち出してそういう関係じゃないんだと説明する方がなんだか怪しげな気がする。

「今回都合よく使える人間が、たまたま私だっただけです」
「終夜くんが都合がいいと感じる人がいったいどれだけいるのやら。気難しい子だから」

 そういう八千代に明依は思わず小さく笑った。終夜を『気難しい子』なんて表現できるのは、八千代くらいなのではないか。
 それから八千代は化粧をし終えて、髪を結い始めた。互いに何も喋らず、八千代はゆっくりとした動きで髪を結っていく。
 時間がゆっくり流れていて温かい。そんな錯覚。先ほど終夜にこの部屋に押し込められた時とは違い、この座敷は今凄く穏やかな気がした。

「八千代さん。終夜がこの吉原の中で、どんな存在なのか知っていますか?」
「ええ、勿論」
「終夜がどんな人間なのかは?」
「勿論。知っていますよ」
「終夜は一体、どんな人なんでしょうか」
「それは、自分自身に聞いてみて」

 八千代は優しい口調で、明依の髪を結う手を止めずにそう言った。

「そういう事を、つい人に聞いてしまいたくなるものよね。好きだとか嫌いだとか。そんな風に単純に、簡単に決められたらどれだけ楽な事か」
「私も、そう思います」

 本当にその通りだ。あんな男は大嫌いだと、あれだけ酷いことをしてきたんだから当然の報いだと思う事が出来たら、どれだけ楽だろう。きっとまだ、諦めきれていない。時折見せる終夜の違う顔がいつか、日奈と旭の見た終夜という人間と重なってほしいと心のどこかで願っている。そうなった先、この吉原でそんな思いを抱く事は罪だと知っているくせに。

「でもね。そうやって他人ばかりを基準にしていては、自分で自分の事すら決められなくなってしまう。だから自分の中で出た答えはいつだって大切にしてあげて。心は複雑だけど全て、あなたが決めていいの」

 きっともう八千代の言う通り、自分の事すら決められない様になっているのだろう。その証拠に、終夜という人間を自分の目だけで見て決める事は、何よりも難しい気がした。自由過ぎて、いろいろな制約を作りたくなってしまう。きっと終夜の言う通り。自分の中の価値基準は、日奈と旭になっているから。

「さあ、出来た」
「ありがとうございます、八千代さん」

 明依は立ち上がろうとしたが、身に着けている着物も飾られた頭も信じられないくらい重い。一体どうすればこんな重たいものを身に着けて、涼しい顔をして歩くことが出来るのか。それは一瞬にして明依の焦燥感を煽った。気合を入れて立ち上がった後、八千代の持っている白い打掛に腕を通した。これに不安定な高下駄を履いて、不安定な歩き方をしなければいけないと考えるだけで、不安に押しつぶされてしまいそうになる。
 そんな明依の気を知ってか知らずか、八千代はそっと手鏡を差し出した。

「自分が素敵だと思うものを身に着けているのに、俯いて歩きたい人なんていないはず。お洒落(しゃれ)というのは、今の自分よりほんの少しだけ背伸びをする事を許してくれる」

 鏡を覗き込んで、思わず短く感嘆の声を上げた。化粧や身に着けるもので人はこんなにも変わるのかと、心底驚いていた。自分の事ではあるが、綺麗だった。化粧をしたから顔がかわいいとか、豪華な衣装を着たから華やかに見える。なんて単調な話ではなく、全体の調和がきちんととれている様な、そんな美しさだ。
 当然だが、たくさん並んでいる簪と櫛の中から使われたのは一部だった。化粧はもちろんの事だが、もしかすると帯の位置や着物の重なり、簪の位置から色までが綺麗に見える黄金比があって、それを寸分違わず突いたのではないかと思う程。

「腕が落ちていたら、終夜くんに顔向けできない所だった」

 しばらく鏡を見て唖然としていた明依だったが、そういう八千代に思わず息を漏らして笑った。その腕のあまりの凄さと、いつもとは違う自分に胸が高鳴る感覚に。自分の力ではない事は百も承知だが、今の自分はこの着物に負けてはいないと明らかな自信がついていた。

「やっぱり。あなたにはこの着物がよく似あう」

 てっきり白単色の着物だと思っていたが、袖の内側。打掛の内側と、裾引きになっている着物の内側の見える部分には様々な色が混ざっていた。遠目で見ればそれは大層美しいだろうが、近くで見るとただ色がごちゃごちゃと並べられている様な気がする。おそらくとんでもない金額の着物に失礼な話だが。

 そこでふと明依は、座敷で藤間と話した自ら選んで脇役になった男と酒を注ぐ女の話を思い出していた。
 〝外側を白く塗り潰す〟様な白い着物。しかしそこから〝垣間見えているであろう色を吐き捨てた様にうるさい内側〟。この着物は、あの藤間の表現がぴったりな気がした。
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