造花街・吉原の陰謀

08:もう少しだけこの距離を

「花魁道中……?」
「そう、花魁道中。まさか知らないの?」

 終夜は小馬鹿にした様な口調でそういった。それに対して明依は終夜を睨んだが、彼に気にする様子があるわけもない。

「花魁道中は松ノ位の特権で、私には出来ない。知らないはずないでしょ」
()()いいって言ってるんだよ?」

 つまりまた頭領の許可を取っての事だというのだろう。この吉原はまるで終夜の物のようじゃないか。そんなことを考えながらも、明依はまだ混乱していた。

「そんな事言っても、やった事ないんだけど」
「ただ歩けばいいよ。物も人も全部こっちで準備してる」

 そういうと終夜は立ち上がって強引に明依の手を引いて歩き出した。明依は現状を理解できないまま、障子窓を開けたと同時に手を勢いよく放した終夜のせいで、勢いを殺そうとした手と腹部を床板にそこそこ強く打ち付けて顔をしかめた。

「いたいた。おーい、宵」

 この男、毎回毎回本当に遊女の身体を何だと思っているんだと考えている明依の隣で、終夜は遠くに響く声でそう言った。往来する人の中から宵は弾かれた様に顔を上げて視線を彷徨わせ、明依と終夜のいる座敷を見た。終夜は笑顔を作ったまま、隣でしゃがみ込む明依を指さした。

「この人の花魁道中、見たくない?」
「なんだって?」
「出かけてる場合じゃないよ。まァ、楽しみにしといてよ」
「おい終夜!何を、」

 そもそも宵の話を聞く気はないようで、一方的にそう告げると終夜は障子窓を閉めた。

「……宵兄さんを頭領にしたくないアンタからしたら、満月屋の私がおとなしくしているに越したことはないんじゃないの?」

 終夜は黙ったまま、余裕じみた笑みを浮かべて明依を見ていた。その少し感じる圧に怖気づきそうになったものの、明依は口を開いた。

「だから、私に目立たず騒がずしていろって言ったんでしょ?」
「自分がこのチャンスを掴めると思ってるなら、大きな間違いだよ」
「……どういう事?」
「松ノ位は吉原の顔だよ。さすがに今のアンタじゃ絶対に無理。だと思うけど、主郭の連中もさすがにそこまで腐ってないと信じたいね。……まァつまり、半端者が着飾って考えなしに歩いたくらいじゃ何も変わらないって事」
「じゃあ、何の賭けにもならないじゃない」
「なってるよ。だって俺はもう、この選択に人生も命も賭けてるんだから」

 明依は終夜を睨みながらそう言ったが、終夜は冗談を言っているとは思えない程真剣な雰囲気で身体ごと向き直ると明依を見下ろした。

「どうかこの選択が間違いじゃありません様に、って。だからアンタはアンタで勝手に賭けたら?」
「成功か失敗か?」
「成功なんて大前提もいい所だろ。誰かの心を強く動かして認めさせる事に命くらいかけてみなよ。ま、別に下手で全然いいよ。俺は困らないし」

 終夜はそう言うと、薄く笑いながら明依に背を向けて歩き出した。

「私、花魁道中なんてやらないから」

 明依がそう言うと、終夜はピタリと足を止めた。
 自分が弱みを握られている状況で、拒否する選択肢なんてあるはずもなかった。しかし、今もテキパキと明依の着物や飾りを準備している人を手配したのは間違いなく終夜だ。それならきっと、凪に他の妓楼に友達がいるかと聞いたのも、これに絡んでいるに違いない。皆目見当もつかないが、終夜がここまでするのだ。絶対に何か終夜にとって都合がいい事があるはずだ。だから断れば困るのは、終夜のはずだ。

「都合よく利用されてるみたいで気分悪いし。どうせアンタの圧力がある限り大夫にはなれないんだし」

 振り向いた終夜の顔に焦りはなく、いつものように薄く笑っていた。まるで明依の次の言葉を待っている様だ。そのあまりの余裕に少し不安になりながらも、明依は立ち上がって口を開いた。

「って私が言ったら困るんじゃないの?凪にこそこそ話してたのは、この事でしょ」
「アンタ本当に懲りないね。俺に条件持ちかける気でいる?二人だけの秘密がある事忘れた訳じゃないよね?」
「私が先に質問したの。困るでしょ?この一回の為に道具を準備して、凪を使って宣伝しておいて私がやらないって言ったら」

 そういうと終夜は身体ごと明依に向き直った。

「なるほど。俺は今アンタに脅されてるんだ。……じゃあ、条件は?」
「妓楼の中では、吉原の深い部分の情報は入ってこないの。旭の事、知っている事は全て教えて。これから先、状況が変わった場合も全部教えてほしい」
「どうしてそれを俺に頼むの?自分で言うのもなんだけど、現状は旭を殺した犯人に一番近いのは俺だと思うんだけど」
「私は……」

 明依はそう言って言葉を止めた。こんなことを口にしていいのかすらわからない。だって終夜はきっと、善人じゃないから。ただそれは今の明依の本心だった。

「私は、旭を殺した犯人は終夜じゃないって思うから」

 明依は少し声を抑えてそう言った。勿論、確信があるはずじゃない。座敷で守ってもらったことで終夜という人間を見誤っているのかもしれない。ただ今では、いやここ最近の考えでは終夜が旭を殺したとは思えなかった。
 終夜はなぜか、大きなため息を一つ吐き捨てた。

「『困るでしょ?』って質問の答えを先に言っとかないとね。それが俺は何も困らないんだよね。困るのは楼主かな。大好きな宵兄さんの顔に泥を塗りたいの?」

 それから終夜はニコニコと笑ってそういった。やはりこの男を利用しようなんて間違いだったらしい。明依は思わず小さくため息をついた。

「って言ってやりたいところだけど、協力してあげてもいいよ。今の所多分、アンタの持ってる情報と大差ない。状況が変わったら教えてあげる」
「……なんで?なんで、協力してくれるの」
「そこは普通、本当?とか言って喜ぶモンじゃないの?」

 そう言うと終夜は呆れたように溜息をついて笑った。
 当たり前だ。到底信用ならない男が、全然意味の分からない流れで協力するなんて言い出したら罠だと思うのは当然の事だ。

「勘は悪くなかったから。打った布石が間違えてなかったら『やらない』なんて選択をしないはずだって確信してたから。俺もまだまだ詰めが甘いね。こう見えて結構焦ったよ」

 明依は信じられない気持ちでいた。自分が少しでも終夜のペースを乱した事実に驚いていた。そしてそれを隠しておけばいいものを、素直に打ち明ける終夜の態度にも。

「……もう一つ、教えてくれない?」
「答えられる事ならね」

 終夜はあっさりとそういう。先ほどの重い空気とは全く違う終夜にまた、この男の事を見失う。そもそも、霧ばかりを追いかけている様な気になっているのだが。

「自分が不利になるかもしれない状況で、どうして私に花魁道中をさせるの?」
「不利な状況になるよりももっとマズイ事があるからだよ」

 いつもの様に飄々とした態度でそういう終夜を、明依は真正面から見ていた。いつもと全く同じ。さらに言うなら先ほどまでは重々しい雰囲気すらあったはずだ。それなのに今はどこか、軽い気がする。

「裏の頭領は独断で物事を決められる。主郭の連中は頭領を信頼しているから、基本的に揉め事は起きない。だけどそれは独裁じゃないんだよ。吉原を牛耳っている人間は案外律儀でね。内輪揉めを酷く嫌うんだ。主郭の連中が深く絡んでいて大半が俺が頭領になる事を拒絶しているなら、宵が頭領候補として名前が挙がるのは時間の問題だった。そしてこれから先、多分宵を頭領にしようとする動きは大きくなっていく。どちらにしても流れは止められないなら、都合よく使ってやろうって考えてるだけだよ」
「それで終夜はどうなるの?」
「知らないね。予知能力者じゃあるまいし」
「もし宵兄さんが頭領になったら、どうするの?」
「決まってるだろ。殺すよ」

 終夜はためらわずにはっきりとした口調でそういう。
 ずっと疑問に思っていた。本人にも直接聞いた事だ。それなら一体、あれは何だったのかという疑問だ。

「じゃあどうして、宵兄さんを地下に監禁したときに殺さなかったの?」

 終夜は何も答えない。

「チャンスはいくらでも、」
「それは前に答えた。質問コーナーはこれでおしまい。ほら、ぼけーっとしてないでさっさと準備してさっさと揚屋まで歩いて来てよ。深く考えなくていいからさ」

 終夜は一方的に会話を切り上げると、部屋を出て行こうと踵を返した。終夜の気まぐれかどうかは知らないが、『もう一つ』と言った質問をいくつも答えてくれたのだ。それだけで充分だと思うべきだった。
 それなのに、どうしてだろうか。終夜が去ろうと見せるその背中を、追いかけたい気持ちになる。

「……あの、」
「あ、そうだ」

 小さな声は途中で終夜に遮られた。明依はびくりと肩を浮かせた後、背筋を伸ばした。それから安堵のため息を吐いた。どうして終夜を引き止めようとしたのか。続ける言葉を何一つも考えていないくせに。
 終夜は明依の方向へ振り返った。

「聞きそびれてたんだけど、暮相兄さんの話は誰から聞いたの?」
「それは……」

 終夜は何気ない質問をしているかのように軽い口調でそう質問したが、明依は口ごもった。

「アンタが答えたからって何もしないよ。それに、俺は『もう一つ』にいくつも答えたよ。一つくらい答えてくれてもいいと思うんだけど」

 何もしない。という言葉を全て信じた訳ではないが、おそらく晴朗は終夜が関わりたくない人間のトップ3にはランクインするはずだ。それに、晴朗はそうやすやすと殺される事もないだろう。

「……晴朗さん」
「晴朗?あの人が吉原に来たのは、暮相兄さんがいた時よりも後だったけど」

 その言葉に、明依の心臓は大きく鳴った。
 そんなはずないと思った。あれだけ詳しく、昔の状況を説明していた。じゃあ一体、晴朗は何者なのか。

「……どういう事?」

 明依は怖くなって、思わず終夜に震える声で問いかけた。しかし終夜は少し考えるそぶりを見せた後、いつもの様に飄々とした態度に戻った。

「まァ、そっちは後でいいや。気にしなくていいから、とりあえず頑張って」
「ちょっと……!」

 テキトーな口調でそういう終夜の背中に声をかけるが、彼は振り向く気すら無さそうだ。

「じゃあ、後はよろしく頼んだよ」

 部屋を出る直前、上品な素振りで畳の上に正座している一人の老婆を見て終夜はそういった。「わかっていますよ」と言った老婆は、出て行く終夜を視線で追った後で明依を見た。

「いつの時代も男って言うのは女心が分からないものね。女が着飾っているときくらい、部屋の前で待っていてくれたらいいのに」
「あなたは、蕎麦屋のおばあさん」

 穏やかな表情で座っていたのは、以前に吉原の警備から逃げる為に終夜と入った蕎麦屋の、福戸屋の女将だった。
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