造花街・吉原の陰謀

11:花魁道中、無間行き

「明依」

 宵の声は聞き心地がいい。何もかも甘えて、ずっとそばで聞いていたくなるくらい。
 自分の事なのだから当然の話だが、自分の性格をよく知っている気でいた。よく知る自分ならきっと失敗するかもしれないこの状況では、見ないでほしいと思うはずだ。

「ちゃんと見てて。私の事」

 それなのにどうして今、こんな成功するかもわからない大博打にこれほど胸を張れるのか。明確な理由なんてわからなかった。

「本当にいいんだな、明依」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、行くぞ」

 そういう時雨に続いて、明依も満月屋の外へと一歩を踏み出した。午前中の雨はどこへやら。雲を払いのけたのか、空には太陽が燦燦と輝いていた。
 凪の宣伝はかなり効果があったらしい。満月屋の前には、花魁道中を一目見ようと見た事のない程多くの観光客が待ち構えていた。

 八千代のおかげで自信を持てたから。それが何より大きな原因だったのだろう。
 認めてほしい。
 なんて浅はかで、他人本位な言葉だろうか。しかしそこには全て余す事なく詰まっている様な気がした。明依の中で、日奈と旭という存在はそれだけ大きかったという事。そして今、その大好きだった日奈が見る事が出来なかった景色を見ようとしていて、旭がいつかと願った舞台に立とうとしている。
 『少しずつでいいから認めてあげて、明依。あなたが可哀想よ』
 そういう吉野に、これ以上自分を嫌いになりたくないと答えた。自分自身に罰を与える事で、苦痛を和らげようとしていたのかもしれない。日奈が許してくれていると知っても、素直になれずに。叱られてしまうじゃないか、いつまでも、こんな自分では。
 もっと早く、胸を張ってあげればよかった。
 この緊張感も、高揚感も、跳ねる心臓が痛いほど打ち付けて奏でる鼓動も、生きている事を教えてくれるから。

 明依は、時雨の肩に手を置いた。
 通常、後ろに引いた足を大きく外側に蹴り出して進むが、裾の長さが邪魔をしてそれは出来ない。
 明依は後ろに引いた右足をほんの少しだけ前に出した後、右側へ向けて裾を払い、それから大きく回して一歩前に進んだ。伝統的な外八文字とは違う、異色の歩き方だという自覚は勿論あった。しかし、裾の長いまま歩くならこうするしかない。寧ろ、歩き方の美しさで言えば四人の大夫に適うはずもないため、この歩き方で安心すらしている。さらにいうなら、大夫でもない遊女が歩いているのだ。異例も異例。それならとことん異例を貫いてやろうなんて、反骨心の様なものがあることも否定しない。

 明依は一歩ずつ足を動かし続けた。
 あくまで想像の範疇を出ない事だが、この花魁道中が成功すれば宵が頭領選抜で少しでも有利になるかもしれない。もしかすると終夜の言う通り誰かの心を強く動かして認めてもらえるかもしれない。その先には、何があるんだろう。雪と一緒に、また満月屋で笑えるだろうか。
 思い出とこれからを一通りなぞった。
 非情だと言われても仕方のない事だと思う。いろんな人の顔が浮かぶ。しかし、今それすらも遠くに感じている。全く言葉を選ばずに言うのなら、どうでもいい、というのかもしれない。

 今この瞬間が、堪らなく心地いい。それだけが事実だった。極限まで研ぎ澄ましたともいえる意識、この感覚にずっと浸っていたい。
 一秒ごとに更新される世界に、ありったけを刻み付ける感覚。命を燃料に煮え立つ何か。何もかも燃やして、使い果たして、いっそ空っぽになってしまえたら。
 小さな核から増幅した何かが、フルオートで身体を動かし続けていた。しかし、全てが自分の手中にある様に感じる。五感さえ閉ざしているような錯覚。しかし、より繊細に溶けていく。もっと密度の高い何かを、五感に代わって直接脳に叩き込んでいる様な。

 そんな明依の極限の意識に軽く触れたのは、誰かの視線だった。
 明依がそちらに視線を移すと、叢雲と炎天と清澄がいた。三人とも驚いていた表情でこちらを見ていた。この三人はいつも終夜に振り回されて気の毒だなんて事を頭のどこかで考えた。その三人に囲まれた誰かはじっと、明依をまっすぐに見ていた。叢雲程ガタイがいい訳ではないが、服の上からでもしっかりとした身体をしている事が分かる白髪頭の初老の男。それが視線の正体だった。
 この男が滅多に表に顔を出さない、裏の頭領。終夜がいいように操っているという印象だが、その圧倒的な存在感から嘘なのではないかと思えてくる。時雨は生きている方が不思議なくらい病状が悪いと言っていたが、とても病人には思えなかった。
 無表情と言えば、無表情。しかしどこか睨んでいるようにも、悲しそうにも見える。
 顔を見た事のない人間の方が多いというのに、どうしてこんな昼間に大夫でもない人間の花魁道中を見に来たんだろう。
 そんなことを考えた後、視線を裏の頭領から前方へと移した。

 あと少しだ。この花魁道中が成功したら旭は笑ってくれるだろう。よくやったな、なんて偉そうな口調で言うに違いない。日奈は笑ってくれるだろうか。最後まで意地を張って何一つ返すことが出来なかった友達を。きっと、笑ってくれただろう。それだけなら。
 想いを寄せていた終夜と丹楓屋の座敷で身体を重ねかけた事実と、蕎麦屋の二階で秘密を作った事を知っても?

 ほとんど無意識下で弾き出した疑問が、明依の極限の意識を揺らがせた。
 最初に一歩前に踏み出す動きをしないまま、後ろに引いた足を外側に蹴り出そうとしてバランスを崩したところで、その動きが間違いだという事に気が付いた。
 極限の意識が完全に掻き消えるよりも、転ぶと認識するよりも前。時雨は身を寄せて前のめりになる明依を支えたと同時に、袖の内側から滑らせた扇子を地面に落とした。それを拾う為に身を低くしながら、明依の着物の裾をさっと払った。
 そして時雨は身を起こした。明依が肩に手を置くと何事もなかったかのように歩き出そうとする時雨に釣られて、明依もまた足を動かした。

「ありがとう、時雨さん」
「悪かったな、明依。どうやら俺は、お前を見くびっていたらしい。宵はさぞ鼻が高いだろうよ。こんな立派な花魁道中を、自分が見込んだ遊女が歩いてくれたら」

 時雨は少し笑いながら、明依だけに聞こえるくらい小さな声でそう呟いた。
 『せめて他人から見た私くらいは、彼女が愛してくれた私のままでいたいじゃないか』
 藤間の言葉が胸の内に溶けて、揺らいでいた意識をまた高い所まで引き上げる。この葛藤も日奈に対する罪悪感もきっと、生涯消えないだろう。ただせめて、せめて他人から見た〝明依〟という自分くらいは、日奈と旭が認めてくれたままでいたい。少しくらい、強くなれているだろうか。

「時雨さん、私ね。旭と日奈が死んでからずっと、誰かに認めてほしかったんだと思う。あの二人と、それから宵兄さんが世界の全てで、それ以外は何もいらないって本気で思ってたの」

 時雨は明依のペースに合わせて歩きながら、黙って話を聞いていた。

「きっと私は、何者でもない自分を心から認めてあげられる程強くなくて、そのくせ誰より自分自身を認めてあげたいと思っている。私は今まで、日奈と旭、それから宵兄さんに生かされていた」

 『人間は誰かに触れてもらわないと、自分の形が見えない様にできてる』
 本当に終夜という人間は不思議だ。確信を突く様な事を口にする。

「だから今度は、私自身が持っているもので誰かに認めてほしいって思ってるの。そうしたらいつかきっと、今度は私が私を認められるようになると思うから」
「俺はたくさんの女を見てきた。そこに優劣なんて絶対にないって事は先に言っておく。でもな、心底美しいと思う女はいるんだよ。やっぱり何にも依存せず、自分の足でしっかり立ってる女ってのは綺麗なモンだ。……そういう女に限って、俺を買った次の日には平気な顔して別の見世で別の陰間を買いやがる。いい気分はしないだろ?」

 ふてくされた様な口調でそういう時雨に、明依は呆れた笑顔を浮かべた。

「自分はいろんな女の人と遊ぶのに?」
「そうそう。結局、自分の事は棚に上げてんだよ。でも、人間ってそういうモンだろ?矛盾だらけで理不尽だ。だけどな、人様に迷惑かけなきゃそれでいいんだよ。その次の日にまた俺を買う女の前で、何の気もない顔でこう思う。〝別の陰間じゃ満足できなくて、俺の所に戻ってきたんだろ。まあ、当然だな〟って。思ったモン勝ち、テキトーでいいんだよ」

 何とも時雨らしい考え方に、明依は思わずクスリと笑った。

「吉原じゃ噂話、外の世界じゃSNS。いつの時代もどんな場所でも、自分のブレない芯がなきゃ他人に振り回されて至極生き辛いのがこの世の中だ。お前は考えすぎで真面目すぎるから、損してるぜ。……って言いたいんだが、その優しさがお前のいい所だと俺は思うよ」

 小学生の授業じゃあるまいし、いい所を真正面から褒められることにくすぐったさを感じた。

「だから強い女に。今よりもっといい女になれよ、明依。俺みたいな男を袖にするくらい」
「時雨さんはいい男だよ」
「わかってんならさっさと宵を説得しろよ。いっそ泣き落としてほしいくらいだ。本気で困った宵の顔が見られるぞ」

 冗談か本気かわからない様な口調に明依が笑うと、今度は時雨が薄く笑った。

「それから、松ノ位の遊女達に並ぶくらい。だな」

 あんな女から見たっていい女になるなんて、今の明依には全く想像がつかない事だった。『松ノ位に上がる事が出来る人間のパターンはある程度決まっている』と以前終夜は言っていたが、規則性があるのならぜひ教えていただきたいものだ。きっと、自分で考えろと言われて終わりだろうが。

 盛大に聞こえる拍手を背に、明依は到着した揚屋の敷居を跨いで中に足を踏み入れた。太陽の光よりも淡い建物の中、落ち着いた雰囲気がある。
 なんの予兆もなく膝から重力に従って脱力し前のめりになる明依を、時雨は間一髪の所で明依の腹部に腕をまわして支えた。

「お疲れさん」
「……なんで」

 足に力が入らない。それどころか、身体中が震えていた。時雨に支えられてやっとの事で歩きながら、明依はそう呟いた。

「おかしくなってないみたいで安心したよ。あんな大人数の注目を浴びて慣れない事をしようってんだ。緊張しないはずがない。その反応が普通で、今まではネジが一本飛んでただけだ」

 時雨は明依を移動させて段差の上に座らせると、身体を起こした。

「見事だったぜ、明依。怖いくらい綺麗だったよ。あの気圧される様な気迫は、他の大夫となんの遜色もなかった」
「よかったぁ……」

 明依は小刻みに震える手を見つめた後、情けない声でそう呟きながら止まらない身体中の震えを止めようと、自分自身を抱きしめるように肩に触れた。
 今になって自分がとんでもないことをしでかした気になっていた。『ネジが一本飛んでた』という時雨の表現は、全くもってその通りとしか言えない。転びそうになった時に時雨が助けてくれなかったら、そう考えるだけで明依は、背筋が凍る思いがした。

「あらあら、気が抜けてしまったのね」
「八千代さん」

 いつの間にか明依の側に立っていた八千代は優しい顔をして笑った。

「ありがとうね、黎明」
「はい、あの……こちらこそ」

 源氏名を名乗っただろうかという疑問だったり、何に感謝されているのかだったり、ただでさえ現状に混乱していた明依は何の考えもなしにそう答えた。

「本当に素晴らしかった。あなたもそう思うでしょ?」

 自分に言われているのかわからない明依が何も答えずにいると、八千代は出入口に視線を移した。

「和花ちゃん」

 明依が出入口に視線を移すと、走ってきたのか肩で息をしている吉野がいた。

「私の源氏名はもう、吉野よ。……八千代さん」

 吉野はそう言うと、息を整えながら真っ直ぐに明依の方へと歩いてきた。

「そうね。そうだった」
「八千代さんが持っていたの?」

 どこか寂しそうにそう呟く八千代のすぐ隣を通りすぎた吉野の目には、少し涙が浮かんでいる様にも見える。明依はただ、意味が分からずに吉野を見ていた。

「いいえ。私は終夜くんに頼まれただけよ」 

 どこか暗い雰囲気を吹き飛ばすように、感嘆の声を上げながら揚屋の中に入ってきたのは凪だった。花が咲いた様な笑顔で揚屋を見回した後、「きゃーー!」という奇声を上げながら明依の側へと駆け寄った。

「黎明さん!!本ッ当にかっこよかったです!!」
「ありがとう、凪。それより、終夜と約束したのはこの事だったの?」
「はい!満月屋から花魁道中が始まる事と、小春屋の時雨さんが一緒に歩く事をたくさんの人に知らせてくれたら、今日だけ揚屋への立ち入りと吉原好きなら大興奮間違いなしの着物をすぐ近くで見せてくれるって!!終夜さまって本当にいい人ですよね!!」

 時雨は小さく舌打ちをして「アイツ。いいように使いやがって」と呟いていた。
 終夜がいい人という凪の発言が頭の中で引っかからなかったわけではないが、それよりも先に明依は自分の着ている着物を見た。『吉原好きなら大興奮間違いなしの着物』というのはこの着物の事らしい。

「本当にいいんですかね!!私みたいな一従業員が揚屋に足を踏み入れるだけじゃなくて、こんな吉原の歴史に残る超伝説的な着物をすぐ近くで見る機会をもらえるなんて!!!」

 そう言いながらも、凪は明依の身に着けている着物をいろんな方向から見ていた。

「この着物、どうしたんですか!?」
「終夜が持ってきたみたいなんだけど……。そんなに凄いの?この着物」
「黎明さん、知らないんですか!?ずっと行方不明になっていた、吉原で一番有名な着物ですよ!!そうですよね!吉野大夫!」

 凪がキラキラした笑顔でそう言うと、吉野はこくりと一度頷いた。

「そう。この着物は私の姐さん、先代の吉野大夫が最後の花魁道中で着た着物よ。ずっと行方不明になっていた。もう見る事はないと思っていたのに」

 どうしてそんな着物を終夜が持っていたのか。ずっと行方不明になっていたのならどうして今更、世に晒そうと思ったのか。
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