情熱の続き
1.ロンドンにて

「ハロー。元気かしら?
ロンドンの春は冷えます。でも思っていたよりも晴れの日があるのでよかった。荷物の整理も終わって少しずつ日常というのが見えてきたような…とにかくこの街に慣れようと努力しています。大きな公園もあるし、スーパー、本屋、いろいろなものを見つけている最近は、なにもかもが新鮮。それで、前に宗が食べさせてくれたきゅうりのピクルスが売られていたの。それを見て日本が懐かしいなんて変な話ね。」

貴広の会社が借り上げているフラットの一室で、里穂はノートパソコンでメールを作っていた。相手は貴広の友人でもあり、今となっては唯一の異性の友人ともいえる宗一郎。

平日の午後、穏やかな光のなかで、宗一郎の名前を文字にするだけで里穂の心は落ち着かない。キーボードを指先が打つときのカタカタという無機質な音さえもどこか切なく響いている。

友達にメールするだけ。日本にいる懐かしい友達に連絡をすることの何がいけないのだろう。わざわざ一人きりのときにすることじゃない。こんな程度のことは貴広に隠すことではないのだ。

それなのに、わざわざ一人の時間を選んでメールを作っている。
でも懐かしいピクルスは、宗一郎と里穂だけが知っていることだ。あの外国製の小さいきゅうりが詰まった大瓶に、紺色のラベルに書かれた白い文字。甘くなくておいしいと宗一郎は気に入っていた。宗一郎の家に行くといつも食べさせてもらった、ディルの風味がきいたもの。

スーパーで見つけて、思わず買ってしまった。中身を出して一つ取り出して口に入れると、懐かしい味がした。
そう、これ。それほど甘くなくてさっぱりとしていて、少しハーブのさわやかな香りがある。宗一郎のお気に入り。たぶん貴広はそれを知らない。一緒に遊んでいた桃子も知らない。そのピクルスを分かち合ったのはおそらく自分だけだろうと里穂は思っていた。

わかってしまったのだ。ロンドンに来る前に、日本を発つ前になって初めて。宗一郎が自分を特別に想ってくれていたことに。

「どうして私を抱きしめたの」

里穂はその一言の文字をパソコンの白い画面に打ち込んでみて、しばらくそれを見つめていたが、結局backspaceキーを押して消した。

「宗の近況も教えてくれたら嬉しいです。仕事が忙しいと思うけれど、体に気を付けて。またね。
里穂」

署名をしてマウスのカーソルを送信ボタンにのせて、静かにクリックした。

返事をしてほしいとははっきり書けなかったけれど、書いてあるのと同じだった。そのことについて宗一郎はそういうのをきちんとわかってくれる。それを里穂も知っていた。
もしも返事が来ないとしてもそれも宗一郎のやさしさや、きちんと理由あってこそのことだと思うから、それでもいい。でも返事がなければ、結局里穂は気にする。そしてそんな里穂を想像して、きっと宗一郎は返事をくれる。簡単で、特に内容に意味はないものかもしれないけど、何かしらの返事をくれるだろう。誰も傷つかない言葉で、やさしさをきちんと込めて。そう確信していた。
悲しいほどに分かり合っていた。気付いてしまった。

貴広と結婚した今になってようやく。


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