情熱の続き
里穂が一人で帰国するという連絡をもらってからも宗一郎は慌ただしく過ごしていた。その間に一度、結衣との約束があり、大学院と仕事との予定も詰まっていた。

それでも里穂と会わないという選択肢はなかった。もしかしたら二度とない機会なのかもしれないと思うほど、それは貴重なときなのだと宗一郎はわかっていた。
会うのに、互いに一番いい日を探していた。時間を気にせずに会うことができて、負担にならない日時。なかなか約束の日が決められないことでも‘二人は似ている’といういつだったかの桃子の言葉を宗一郎は思い出してしまう。よくいえば思いやりあっている。悪く言えば優柔不断。人の顔色を見ている。嫌われたくなくて。でも本心は相手に喜んでもらいたくて。

三月以来に宗一郎と顔を合わせた結衣は表情を輝かせて待ち合わせの場所にいた。
早くも夏らしい明るい色どりのワンピースを着て、カーディガンを羽織って。
およそ二か月ぶりの結衣の姿は、宗一郎にとってより明るく映った。強くなっていく日差しのせいか、濃くなっていく緑のせいか。つられてつい笑ってしまうような、その元気な様子は宗一郎の心の澱を取り払ってくれるようだった。

「春のバラは、とてもエネルギッシュで素敵なの」

そういって結衣に連れて行ってもらった庭園は見事にバラが咲き乱れていた。宗一郎は彼女の言う通り、その花の多さに圧倒されながらも、一人では絶対に来ることのないであろう場所を新鮮な気持ちで歩いていた。

これまで付き合った女の子とも来たことはなかった。だいたいはショッピング、食事、映画。公園を散歩する程度のことはあっても、わざわざ花を見に出かける、ということなかった。
春のバラと秋のバラの違いを教えてくれる結衣に、宗一郎は言った。

「いろんなことを知っていてすごいね。勉強になるよ」

自分よりずっと専門的な知識などを持っている宗一郎に結衣はからかわれたのかと思って恥ずかしそうに否定する。

「単にミーハーなの。興味があるとすぐに調べたり、夢中になったりするから」

その言葉に宗一郎は、自分に対しての興味もその一つなのかなと思った。そう思うと気楽にもなる。期待に応えられなくても申し訳なく思わなくていいのだ。

もともと、結婚を前提にとか、そういう話ではない。桃子が紹介してきたのも気軽に会ってみてと言うことだった。それでも気が付いたらもう半年も経っていたことに驚いていた。大人になって自然と疎遠になる友人が増えていくなかで、仕事でもないのにこうして新しく知り合った人と関係を築いていっていることは、自分でも宗一郎は意外だった。

でもそれは、彼女の前向きな姿勢のおかげなのだろうと宗一郎は思って、興味を持って話題をふってみる。

「飽きて辞めたものもある?」

唐突な質問に対しても、彼女は少し考えてからきちんと答えた。

「本当に嫌になって飽きるというより、飽きるような状況になっちゃって辞めるというのが正しいのかも。スキューバダイビングとかスノーボードとか、楽しくて学生時代とかけっこうやっていたけれど、気軽に毎日できるようなことじゃなくて、その場所に行かないとできないから、どうしても頻繁に楽しめないと自然と熱が冷めていくというか。」

自然と熱が冷めていく。
それは宗一郎にとって、どこか気楽になる言葉でもあった。こうして里穂に気軽に会えないまま時間が流れていけば、やはりいつかは彼女を想う苦しさから抜け出す時が来るのだと思ったら。

一方で結衣は自分の発言に対して、だから決して飽きっぽいわけではないと思うと自分で自分を援護するように言い、宗一郎も笑った。
そして今度は、頻繁に会えなくなれば、自分への熱も自然に冷めていくのだろうかと宗一郎は思う。そのとき自分はどんな気持ちになるのだろう、とも、少しだけ考えた。
庭園のバラは何も言わず、ただ一途に咲き続けていた。

その夜は、食べたいものがあれば教えて欲しいと宗一郎は結衣に事前に聞いて、結局彼女のリクエストのベトナム料理の店で食事をしていた。暑くなってきたからエスニック料理が食べたいと言って、お店を提案してくれたのだ。

宗一郎はいくらかお店を探してみたものの、こうやって教えてもらえるほうがいい、と思った。
好みがわかっている場合や気心知れている人間との食事は別で、いい店がないか探して、気に入ってもらえるか心配するようなことよりも、こうやって意見を言ってもらえるほうがありがたかった。

「宗くんは嫌いなものないの?」

生春巻きにトッピングされたパクチーを食べる宗一郎に結衣が聞く。エスニック料理が苦手という男性は多いようで、周囲の人間でもパクチーは好みが別れると結衣は言い、彼女のセレクトした料理を何でも食べる宗一郎をすごいと思ったそうだ。

「特別、食べられないほど嫌いなものはないかな」

宗一郎は言って、再びパクチーが使われた生春巻きを口に運ぶ。

「少しは、あるの?」

何気ない結衣の質問に、宗一郎は真剣に考えてみる。先ほど彼女がそうしてくれたように。
しばし口の中のものを咀嚼しながら考えたのち、宗一郎は言った。

「あるとは思う。ただ普段の生活であまり出会わないのか、今は思い浮かばないな」
「じゃあ、そのうちそういう宗くんを見ることができるのかしら。苦手な食べ物に遭遇して困る姿とか」
「そんなの見たいの?」

にこやかに言う結衣に、宗一郎は笑って聞き返す。おもしろいことを言うなと思ったのだ。結衣は宗一郎の言葉に声を出して笑いながらも、穏やかに言った。

「なんでも知りたいの。まだ知らないことが多くて、もっといろんな宗くん見れたらいいなって。この人、はしゃぐようなことあるのかな、大泣きしたり大笑いしたりするようなことあるのかな、あるなら見てみたいなって思っちゃう。」

それは、感覚としてとても瑞々しい言葉だと宗一郎は思った。彼女が年下だからということではなくて。好きだとか失いたくないとか大切だとか、そういうありふれた想いよりも、もっと芽生えたての新鮮な感情。それを惜しげもなく言葉にできること。宗一郎は結衣が羨ましくも感じた。

「私、変なこと言っちゃった?」

感心したように結衣を見て微笑む宗一郎に彼女が首をかしげて言う。

「いや、ありがとう。そんなふうに思ってくれて。」

それは宗一郎の素直な胸の内だった。
それから追加でオーダーしたビールと牛肉のフォーをシェアした。デザートのココナッツアイスを一口スプーンにすくって口に運んだところで結衣が言った。

「おいしい。宗くんのおかげで今日も本当にいい一日になった。ありがとう」

その言葉に、同じようにアイスクリームを口の中で溶かした宗一郎が言った。

「とんでもない。庭園も料理も、全部、結衣さんのおかげだよ。」

こちらこそ楽しい一日をありがとう、と宗一郎は言うと、結衣はいつになく照れたように笑って、少し俯いた。

「またお誘いしてもいいですか」

いつからか宗一郎のことを宗くんと呼び、会話のほとんどで敬語をはずすようになった結衣の丁寧なお願いは、宗一郎の心を揺さぶる。その真摯な態度を前にするとき、NOという言葉はこの世に存在しないように思うほどだった。
宗一郎は静かに笑顔を見せたまま問いかける。

「僕は面白い場所に連れていくこともできないし、いい話ができるわけでもないし、気を遣わせている気さえするけれど」

いったい僕のどこがいいの、と聞くように宗一郎は言った。ずっと聞きたかったことだった。
結衣は首を横に振って、はっきりと、確かな口調で言った。

「私が振り回してしまっていたら申し訳ないけれど、もし少しでも楽しい気持ちがあって気分転換になるようなら、また会って欲しくて。宗くんの落ち着いて話してくれるところとか、ゆっくり笑うところとか、宗くんは私にないものをたくさん持っていて、憧れというか、とにかく素敵で、仲良くなりたいと思ったから」

結衣は勢いに任せて発言したものの、言葉にした後で恥ずかしさが込みあげたようで、少し顔を赤らめた。
こういうとき、いい言葉をかけてあげられる男ならよかっただろうにと思いながら、宗一郎はただ静かに「ありがとう」と言った。

それだけでも結衣は安堵したように笑って、半分ほど液体になりかけていたアイスクリームを食べながら、二人はまた笑った。
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