情熱の続き
7.帰れる場所

お土産がいくつかあって重いから、と言う里穂の連絡を受けて、宗一郎のマンションで会う約束をしていた。
里穂が帰国して五日目、六月二回目の土曜日。

「これはロンドンので、こっちは軽井沢の。それから仙台のおばあちゃんの家まで行ったから」

そういって重たげな瓶から缶、箱などをいくつか取り出して広げたのち、紙袋から取り出したバケットと瓶に入ったパテを見せた。

「懐かしくて買ってきたの」

それは里穂が以前勤めていた職場の近くにあるパン屋のものでだった。この店のバケットは宗一郎が気に入っていたこともあり、里穂の中でも懐かしい味になっているのでこの日も買ってきたのだった。

宗一郎の自宅マンションで、里穂と二人で向かい合って食事をすることは、珍しいことではなかった。里穂が結婚する前、たまにこうやって会っていた。

週末の仕事帰りに、だいたい宗一郎がワインを買っておいて、里穂が帰りにバケットとパテなどを買って、あとはちまちまとチーズやピクルスなどをつまんで話をしていただけだった。会話は里穂があくびをするまで続いた。

会話の内容は、些細なことばかりだった。もちろん意見が欲しかったり、話を聞いて欲しかったりすることもあったが、どれも深刻なものではない。日常を分け合うような感じに近かった。心を許せる友人との貴重なひと時に過ぎない。

それでもそのことは、桃子も貴広も知らない。隠そうとしていたわけでなく、別に話すようなことではないと互いに思っていた。自分たちのささやかな楽しみを誰かに理解して欲しいわけではなかった。

色々とありがとうと宗一郎は言って、いつだったかもそうしたように、ワインを持ってきて、チーズでも食べようかと言う。そしていつもよく見ていた小さなきゅうりのピクルスも瓶ごと持ってきてくれて、里穂はつい手を伸ばす。紺色のラベルに白い文字の入った、大きな瓶にたっぷりと詰まった小さなきゅうり。

「これ、ついこの間も食べたの。ロンドンでも手に入るから、よく食べているわ」

嬉しそうに言う里穂の言葉に宗一郎は思わず笑う。

「すっかり気に入ってくれたんだね」

光栄だよ、と言って。
里穂はまじまじと瓶を眺めながら微笑む。

「これを食べていると、宗とこうしている時間を思い出すの。なんてことはないんだけどね。私にとってすごく大切な時間だったみたい」

いくらかお酒が入っているとはいえ、里穂は酔っているわけではないことは宗一郎もわかっていた。それでも、左手に指輪をしている里穂のその言葉を宗一郎はまっすぐに受け止められず、好きなだけ食べてとピクルスを差し出すくらいしかできなかった。
何気ない会話。日常のこと。それを、永遠に分かち合っていけたらいいと思っていたのは里穂だけではなかった。懐かしい日々がただただ続いていって欲しいと願っていたのは、二人とも同じだった。

「宗も、ここのバケット懐かしかったでしょう?」

里穂が言ってバケットにパテを塗って差し出して言うと、宗一郎はいや、と軽く首を横に振った。同じ気持ちを分かり合えると期待していた里穂はなるべく落胆した様子を出さないようにして、そっかと呟いた。
その様子に気づいた宗一郎は軽く笑って言った。

「何度か買って食べたんだよ」
「そうなの?」

驚いて里穂が聞き返すと宗一郎は頷いた。

「近くに行く用事があったときとか、せっかくだしと思って。それで、一人で食べていたから、今日、特別に懐かしいというほどでもないんだ」

里穂がロンドンでピクルスを食べていたように、宗一郎は東京でこのバケットを食べていた。そのことは、里穂の胸を温かくする。たったそれだけで、本当にこうして一緒に過ごしていた時間を互いに大切に思っていたことが実感できたから。

「何を考えて食べていたの?」

里穂は宗一郎に聞く。宗一郎はいつもと同じ様子で、穏やかに微笑んで言う。

「もちろん里穂のこと」
「例えば?」

里穂は期待する。二人でこうやって過ごした時間が楽しかったこと、それから里穂がロンドンに行って寂しくなったと言ってくれたら、それだけでも十分だった。

自分の知らない女の子と親しくなっていく宗一郎をつなぎ留めることが、自分の本当の望みでないことは、里穂自身わかっていた。それでも忘れられなかった一度きりの抱擁の続きがあるのならと、心のどこかでずっと思っていた。

問いかけに対する答えを待つ里穂は宗一郎を笑顔で見つめる。きっとそれは大事な言葉のはずだから、きちんと聞きたいと思ったのだ。一瞬も見逃さないように、一言も聞き漏らさないようにするために、その瞬間を待つ。

ワイングラスをテーブルに置いた宗一郎は里穂の左頬にそっと触れる。向かい合って、その顔に手を伸ばして、穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと宗一郎の顔が近づく。
彼の端正な顔立ち。美青年という言葉がよく似合う。出会ってから10年くらいたつのに、その魅力は少しも衰えていなかった。
初めて会ったとき、この人がテニスをするのか、と里穂は思った。不健康とかそういうことではなくて。陽の下で、汗をかいて、どんなふうに笑うのか。自分にどんな顔を見せてくれるのか、知りたい、とまだ18歳の里穂はそのとき思った。

いつからだろう。自分に向けられる表情の意味を知りたいと思ったのは。宗一郎のことを考えると例えようのない切なさが込みあげるようになったのは。その本当の心を教えて欲しいと思ったのは。
< 33 / 37 >

この作品をシェア

pagetop