情熱の続き

捉えられた、と里穂が思った次の瞬間、宗一郎が里穂の額に自分の額をくっつけた。
これまでにないほど近づいた唇。それでも重なることなく、いわば軽い頭突きをされたような状態になったことに目を丸くする里穂に宗一郎は笑った。それはいつになく幼い、無邪気な笑顔だった。

「びっくりした。」

困惑した様子で言う里穂に宗一郎は顔をわずかに歪めて笑った。悪い、と言って。
申し訳ないよりもずっと愛にあふれた顔をしていた宗一郎。里穂にとっては不可解でもあった。こんなふうに冗談を仕掛けてくるなんて、かつての熱い抱擁は何だったのかとすら思った。

そんな里穂の想いに応えるように宗一郎は言葉を選ぶようにして少し考えながらも言った。顔つきはとても穏やかだった。

「里穂はいつも僕にとって近づきたいけど近づけない存在。今もこんなに近くにいるのに、これ以上近づけない。そのくらい、里穂を、とても好きだった。本当に。自分の人生で、こんなに誰かを想うことがあるのかというほど。いつも、連絡がくると嬉しくて、目の前にいてくれるだけでよくて、ずっと見ていられたらと思っていた。本当だよ」

宗一郎は言った。そのまなざしだけでも嘘が一つもないことはわかった。抱きしめられているのと同じくらい熱い言葉で、情熱的な響きで、胸の中の想いを言葉にしてくれていた。

「でも、僕は怖かった。友達としか思えないと言われることも、もしも一緒にいる時間が増えて、意見をぶつけ合ったり、それで決まずいまま別れてしまってもう会いたくないと思ったり、思われたりしてしまうことも。」

その言葉を、里穂はよくわかった。笑顔で別れられればまた笑顔で会えるのと同じで、意見をぶつけ合ったり、価値観の違いを主張しあったりすれば、単なる居心地のいい関係でいられなくなってしまう。知らない面を知っていくことは、必ずしもいい面だけではない。

「そして、勇気を出せなかったことも含めて、本当は、貴広の気持ちを聞いてあきらめられるくらいの気持ちだったのだと、今は思える。」

胸のつかえがとれたように、満たされた、清々しい顔をしていた宗一郎に対して、里穂はどんな表情をしたらいいのか戸惑っているようであった。その困惑した表情こそが本心なんだろうなと宗一郎は思って、つい笑ってしまった。互いにあまり人付き合いが得意でなく、誰とでも素直な気持ちで付き合えるわけでもなくて、それでも本当に安心して心を許しあえた相手だった。

宗一郎にとっても里穂はとても大切な存在だった。できればずっと東京にいて自分の話し相手をして欲しかった。誰にものにもならないままで、いつまでもその顔を見せて声を聞かせて欲しかった。

それでも、あれほど誰かを想うことはできないと思っていたこの心も、また誰かをいいなと思い始めていた。里穂を想う気持ちとは違ったけれど、結衣には結衣の、彼女だけの魅力があることを宗一郎は感じ始めていた。結衣のその明るさ、前向きなところ。積極的で世界をどんどん広げていくところ。彼女がこれからどんなふうに年齢を重ねていくのか、宗一郎は見てみたい気がしていた。
悲しいことでも寂しいことでもない。流れる水のようなものだ。人の気持ちは移り変わっていく。

「私、宗が好きよ」

唐突な里穂のストレートな言葉に宗一郎は思わず目を丸くする。直前の人の話を聞いていたのか、と思うと、里穂は続けて言った。

「私たち似ているから、一緒にいると安心できた。たいした言葉なんかなくても分かり合えていた気がしたし、きっと宗も同じ気持ちだろうなって思うと、何を話すのも怖くなかった。だからもしも宗とならもっと自分らしく過ごしていけるのかなとも考えたわ。」

里穂のその言葉に、宗一郎もまた同じだと思った。‘好き’という言葉の意味は、ただ抱きしめたいだけではない。こういうときまで自分たちは同じなのだと思うと、喜ばしいような切ない気持ちが込みあげた。

「それに宗のおかげでひどい自分を見つけることができたわ」
「ひどい自分?」

子どものように無邪気に笑って言う里穂に宗一郎が聞き返した。

「ワガママで、欲張りで、勝手な自分」

自分で言って笑う里穂に対して、宗一郎は何のことかというようにただ里穂の次の言葉を待っていた。里穂は少しだけ俯いて、テーブルの上に並んでいるバケットと小さなきゅうりのピクルスを見ながら言う。

「宗が、デートしてる女の子がいるって聞いたとき、ショックだったの。宗がその子に見せる顔といつも自分に見せる顔が、同じなのか違うか、確かめたかった。特別だったらいいなともね。自分は貴広の腕でぬくぬくしているのに、ずっと私と親しいままの宗でいて欲しかったのよ。
でもそれも全部…きっと恋だったのね。気の迷いとか現実逃避じゃない。郷愁だと言われても否定するわ。恋だったのよ。知りたいと思う気持ちは、本当にただの恋。そう、恋をしていたの」

里穂が俯きながらも笑って言った。ここ最近の宗一郎への想いを一言で表すとしたらそれ以外にないと里穂は思っていた。会いたいと思う理由を、他に知らない。
宗一郎もまた、笑った。里穂の言葉一つ一つを理解し、そして納得していた。

「光栄だね。でも僕は貴広のこともすごく好きなんだ」

里穂の相手が貴広でなければ、自分ももっとひどい男になれたと宗一郎は思う。里穂の未来も気持ちも考えず、自分の知らない男との関係がどうなったって知らないと、己の欲に任せて行動していただろう、と。

里穂もそうでしょ?と聞く宗一郎に、里穂は笑って頷く。ええ、大好きよ、と言って。
その時、大団円という言葉がそれぞれの頭に浮かんだ。たどり着く一つの場所を見たのだ。
すべてを納得したように里穂は言った。清々しい声で、笑顔で。

「また、メールをするわ。話したいことはいつだってあるの。宗は、いつも、ずっと、私にとって大切で、それは本当に変わらないわ。」

そのことも、宗一郎は全く同じ気持ちだった。僕も、と宗一郎は短い返事をして、別れ際、マンションの玄関で抱きしめあった。いつだったかと同じ光景だった。でも今は違う。同じ熱い抱擁でもそれは本当に友達同士の、この先の多くの幸せを願う、別れのハグだった。それでも体が離れても寂しくなかった。そこに他の誰とも築くことのできない友情が確かにあったから。

かろうじて電車が動いている時間だったので、里穂は駅まで宗一郎に送ってもらった。帰るべきときにそのタイミングを逃すようなことは、これまでもなかったし、やはり今日もそうだったと、なんとなく二人ともが思って笑ってしまった。

そして笑顔で手を振って別れて、改札の向こうに残された宗一郎の姿を里穂は目に焼き付けた。

それから一人で地下鉄に乗って数駅、ホテル最寄り駅で降りて地上に出ると里穂は胸いっぱいに外の空気を吸う。
蒸し暑い東京の初夏の夜に貴広が恋しくなる。初めて想いを告げられた夜も、確かこんな夜だった。熱い夜風。里穂の手もとで初恋のように輝いていたグラスの中のベリーニの淡いピンク色。貴広は、覚えてくれているだろうか。
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