情熱の続き
宗一郎からの返事は半年待っても来なかった。
彼は大学院に戻ろうかとも話していたし、仕事が忙しくなるようなことも言っていた。きっとメールチェックも十分にできていないに違いない。きっとそうだ。決して自分と連絡を取りたくないわけではない。ただちょっとタイミングが合わなかっただけ。

里穂は自分に言い聞かせるみたいにして、送信済みのメールフォルダを開いていた。
ロンドンに来て半年が過ぎた、秋らしい、久しぶりのいい天気の午後だった。

「好きにしていていいと言われてもね」

里穂はぽつりとつぶやいて空を仰ぎ見る。わずかにぬるくなった紅茶を口に含むと甘く芳醇な香りにまた少し呑気な気分になる。
駐在員の妻というポジションは一見気楽なようで面倒なところもある。勤めるわけにいかないし、貴広の会社の人たちとの付き合いもある。貴広は無理して付き合わなくていいと言ってくれているが、海外生活に慣れない里穂をホームパーティーや食事に誘ってくれる貴広の職場の人といい関係でいたいのは間違いなかった。

いわゆる‘奥様会’なる駐在妻の集まりやしがらみも、以前ほど面倒なものではないらしいが、それでも友達の多くない里穂にとっては、いきなり知り合った人との交流は少し気後れするところもあった。

そういうとき、日本での日々、独り身で、仕事をして、自分のためだけに過ごしていた日々が恋しくなる。同時に、気軽に会えなくなってしまった日本にいる友人のことも。

「桃子に連絡しようかな」

里穂はぽつりとつぶやいて、メールを一つ作り始めた。桃子というのは里穂の高校時代からの友人で、他大の貴広と同じサークルだった。それから桃子が里穂を、貴広が宗一郎を連れて来て四人での交流が始まり、社会人になってからも良い関係は続いていた。里穂が貴広と結婚したことを、誰よりも喜んでくれたのは桃子だった。

「里穂と貴広は合っている」

桃子はそう言った。タイプが違う二人だからこそうまくいくこともあるのだと。確かに、自分にはない明るさやコミュニケーション能力など、貴広のいいなと思うところはたくさんあった。

桃子は里穂たちよりも早く、かれこれ一年半前に職場の先輩と結婚しており、東京で新しい生活を充実させていた。里穂がロンドンに来てからも、時折メール等でやりとりをしていて、今度オンラインで飲み会をしようと言っていたのだ。
気楽で、些細な出来事でさえ話していて楽しい。桃子とはまだ揃いの制服を着ていた頃からそうだった。自分以上に自分のことをわかってくれているのではないかと思うほど、桃子とは親しい。

桃子へのメールを一つ作り終えて、散歩がてら買い物に行こうと家を出たところで、一人の女性に会った。
貴広の同僚の奥さんで、里穂は彼女を真弓さんと呼ぶ。苗字は佐伯。佐伯氏は貴弘よりも一年早くこちらに赴任してきた経緯があり、少しだけ先輩なのだそう。

「里穂さん、こんにちは」

真弓は里穂のことをそう言う。三つ年上の彼女は、少しだけ年上の顔をして里穂に優しく接してくれる。

「お買い物?」
買い物袋を片手に持ったまま立ち止まって里穂に話しかけてきた。

「はい、スーパーに。野菜とか色々買わなくちゃと思って。」
「あら、手料理。いいわね、新婚さん。仲良くて」
「とんでもないです」

きっと自分たちを知っている人も、知らない人も、貴広と二人でいる里穂を、仲の良い夫婦として見ていることだろう。身長も高く顔立ちがはっきりとして整っている貴広は見栄えもいいし、平均身長程度の里穂と並ぶと頼もしくも見えるだろう。荷物を軽々と持って里穂の手を取って歩く貴広を、「素敵な旦那さんね」と、いつだったか真弓は言った。

今度またお茶しましょうねと言って、彼女は甘い香りを残して自宅に入っていった。佐伯夫妻とは何度か食事をともにしたことがあり、こちらでの生活に加え、さりげなく人間関係についてもアドバイスをくれるなど、色々と親身になってくれる。
イギリスにすっかり馴染んだ彼女はティータイムに誘ってくれることも多く、そのたびにおいしい紅茶を用意してくれた。
佐伯氏の妻という顔で迎えてくれる真弓を前に、里穂も貴広の妻という顔で会う。そのことは、結婚して半年以上たった今でもまだ慣れない。

桃子からの返事はすぐに来た。

「宗と会ったわ。会社の後輩を紹介してあげたんだけど、なんだか仲良くやっているみたい」

最近の出来事の一つとして綴られていた一文に目を留めた里穂は、思わずメールをスクロールする手を止める。

宗一郎のこと。遊びで、みんなでよく一緒にテニスをした。お酒を飲んだり、小さなきゅうりのピクルスをつまんで夜中語り合ったりもした。貴広も桃子もいないところで、二人きりで。

それでも手をつないだことすらなかった。ただ、一度だけ抱きしめられたことがある。お別れのハグにしてはあまりにも熱い。決して忘れられない抱擁。
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