さよならの向こうにある世界

 無事に勤務を終え身支度をしていると、三浦さんから突然話しかけられた。普段は挨拶と最低限の業務連絡しかしない私たちに生まれる会話とは一体どんなものだろう。少しだけワクワクする私に「溝口(みぞぐち)さん」と彼女は私の苗字を小さな声で口にした。

 「あの……今日の人なんですけど、溝口さんの知り合いですか?」

 彼女の言った『今日の人』が誰なのか、勤務時間を最初から最後まで頭の中でざっと振り返って割り出した結果、その人はきっと後光の守さん(・・・・・・)だという結論に到った。「三十番のタバコ買っていったサラリーマン?」と尋ねる私に、彼女はほんの少し頬を赤らめて俯きがちに首をコクリと下へ動かした。——恋の始まりの匂いだ。一連の流れを傍で見ていた私ですらかっこいいと思ったのだから、実際に助けてもらった三浦さんからしたら、もしかすると彼は白馬に乗った王子様にでも見えていたかもしれない。だけど残念ながら私は彼の知り合いでも何でもないので、彼女の恋のキューピッドにはなれそうにない。「まったく知らないよ」と答えながら、守という名前を教えてあげようかと頭をよぎる。だけど絶対に合っているという保証もないし、何より名前の入手方法を説明できる気がしないので今回はやめておくことにした。

 「そうなんですか?私ずっと(・・・)知り合いなのかと思ってました」

 目を丸くしながら不思議そうな表情を浮かべる三浦さんに対して私も同じ表情で応える。彼女の言う『ずっと』というのは、いつからなのだろう。私は守さんと接客上のマニュアル以外の内容を話したことはないし、アイコンタクトでやり取りをしたことだってもちろん一度もない。理由を尋ねると、彼女は過去を思い出すように一度天井を眺めてから話し出した。

 「だって、あの人いつも溝口さんのことちらちら見てますよ?レジだって、もう買い物終わってるのに店内うろつく振りして溝口さんのレジが空くのを待ってから行ってますし。だから、てっきり二人は知り合いなのかと」

 彼女の台詞を頭の中で反芻する。何度反芻しても理解できるはずがなかった。確かに彼のレジをすることは多いような気もするけれど、これに関してはもう何年も対応してきたので、実際に多いのかどうか査定できない。そして彼が私をちらちらと見ているというのは、もはや意味不明だ。ただ一つ心当たりがあるとすれば、私が彼ら(・・)を特別視しているが故に、私自身が無意識に彼らを見てしまっていたとしたら、彼もそんな私に気づいてしまっていたかもしれない。その視線が気になってこちらを見ていたというのなら説明がつくだろう。それ以外の理由は見つからなかった。
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