炎暑とバニラ

 落ち着いてから何度も頭を下げ、再び歩き出す。今度は近くのバス停からちゃんとバスに乗った。ひんやりとした空調が熱を持った身体を冷やす。

 そのあとバス停からはカフェやコンビニで休憩しつつ、19時の約束に間に合うように帰宅──帰宅もなにも、初めての家なのだけれど──した。

 ネットで借りたマンション。
 まだなにも届いていない。

 電気屋さんのWebストアから、家具も家電も一気に注文したのだ。
 病院のベッドの上で──ぼんやりしながら、新生活というものに何の期待も持てないまま、私は色々なものを買った。
 そうして配送工事時刻に空きがあった、今日の19時を指定したのだけれど。




「──え?」


 スマホの向こうから平謝りする社員さんの声に、私は新居のベランダから夕空を見上げつつ間抜けな声でそう返事をした。

 空はオレンジと紫のグラデーション。昼間の熱気と、たっぷりの湿気とを孕んだ夕風が、さらりと髪を揺らした。

 歩道の植え込みにでもいるのだろうか、虫の声がほんの少し、涼しげで──でも、私の心境はそんなに穏やかじゃない。


「クーラーの工事日、間違えた……って」

『申し訳ございません! こちらのミスで……』

「……えっと、いつなら工事していただけるのでしょうか」


 怒る気力さえ、もうなかった。


『そうですね、最短で十日後となります。本当に申し訳ございません……!』


 私は半ば呆然としながら通話を切った。


「十日間も、エアコンなしなんて……」


 こんな身体でなくとも、連日真夏日どころか最高気温の新記録を樹立しているような酷暑。ここで過ごすのは現実的じゃない。……ないのだけれど。


(行くところは、ない)


 捨ててしまった。
 全部捨ててしまったから。

 泣きたいような気分になるけれど、涙は一滴も出なかった。代わりに大きなため息が漏れる。

 そのため息と共に、掃き出し窓によりかかったときだった。「なあ」っていう、男の人の声が聞こえてきたのは。


「……え?」

「こっち」


 ひょい、と手すりによりかかるように、ベランダの仕切りから顔を出したのは──さっきご迷惑をかけた、松原さんだった。私は目を丸くして彼を見つめた。


「聞こえちゃったんすけど」

「はい」

「まさか、クーラーなしで過ごすつもりじゃねえっすよね?」
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