これはきっと、恋じゃない。
ふらふらと歩いていると、気がつけば生徒会室の前のウッドデッキにいた。ひどい本降りの雨は、やっと止み間を迎えたのかいまは止んでいて、空の雲も薄くなったのか少し明るい。
――授業、出なきゃ。
……でももういいか。そんな気分でもないし。
曇っているせいで、向こうはよくわからない。ゆっくりと細く開けた隙間から人影が見えた。思わず肩が跳ねた。
――王子くんがいた。ただ、シャツ一枚の姿で、そこに佇んでいた。
学校来てないんじゃ。
でも、だめだ。
釘を刺されたも同然だった。もう話しかけないで、と言われているようで。
わたしはここに入ることはできない。
あの隣は、もう行けない。
そこは、ただ一人のためのものではないから。
ガラス越しの向こうの王子くんから背を向ける。
少しだけ隙間が空いた窓。風の音、鳥のさえずり、車のエンジン音。いくつもの音を聞いて、やがてステップを踏む音が聞こえて来る。曇天から光が差すような、希望あふれる、小さな王子くんの歌声。
目をつむる。瞼の裏にあるのは、キラキラの衣装を着て輝く王子くんの姿だ。かすかに聞こえてくる歌声と息遣いが、王子くんのパフォーマンスを独り占めしているような気分になる。
たぶん、王子くんは気がついている。そうに決まっている。
でも、何も言わない。
ステップを踏む足も止めないし、歌声も止めない。
前みたいに、このガラス戸を開けて「逢沢さん」なんて笑ってはくれない。
わかってる。でもすこしだけ、わたしだけに笑ってくれるのを期待してしまっていた。
俯いて、赤い上靴を見つめる。……汚くなったな。
そのとき、音が消えた。細く開いた窓から重たい湿気を含んだ風が通り過ぎた。そしてその瞬間、甘みのある匂いが濃くしてきた。
泣きそうになった。
その匂いが、いろんな思い出をよみがえらせた。あのときの気持ちだって、なにもかも、鮮明に。
すぐ近くにいる。ガラスを隔てて、すぐそこにいる。
「……好き」
胸を覆う感情が、溢れ出る。
もうだめだ。我慢できない。
好きだよ。ぜんぶ好き!
そう、大声で叫びたくなった。
意外と普通の男の子なところ。にこりと笑うところ。とても努力家で、練習熱心なところ。優しいところ。
ぜんぶ、すべてが好きだった。
誰かのために笑いかける王子遥灯じゃなくて。
誰かに夢を与えるために歌って踊る王子遥灯じゃなくて。
アイドルとしてきらきら輝く王子遥灯じゃなくて。
わたしは、ただ一人のごく普通の、高校生としての王子遥灯が好きなんだ。