カタストロフィ

ホットミルクとチョコレート




ディナーを終え、夜着に着替え、翌日の準備を済ませると、たいていユーニスは本を読んでいる。
一日の中でもっともリラックスした時間のはずなのだが、ここ最近はダニエルから渡されたカシアの花が、ユーニスから安らぎを奪っていた。

部屋のどこにいても、甘く、香ばしいカシアの香りがする。
その香りが鼻腔をくすぐるたびに、ユーニスはダニエルが髪に口づけを落としたことと、彼の熱い眼差しを思い出してしまう。

あの午前中のひと時を思い出すたびに、ユーニスは激しい動悸に襲われ、背徳感に溺れそうになった。

元教え子に対して、いやそれ以前に、9歳も年下の子供に対して抱いてはいけない感情を、自分は持ちつつある。
カシアの花をもらったあの日、ユーニスは己を戒め、なるべくダニエルに近づかないように気を引き締めた。
しかしそんなユーニスの決意を嘲笑うかのごとく、ダニエルは小旅行に出かけてしまった。
母ジェーンが逗留している保養地ハロゲートに赴き、無聊を慰めたらしい。
せっかく帰って来たのにちっとも屋敷に居つかないとぼやくミセスグリーンヒルの愚痴に付き合って、ユーニスはそのことを知ったのであった。

ダニエルが屋敷に戻ってくるのは来週。
そして9月になる前には、彼はミラノに戻る。


(良かったじゃない、これでしばらくは会わなくて済むわ。会わなければ気持ちが乱れることも無いし、気まずいと思うことだって無いもの。時間が経てば、ダニエルのあの告白だってなかったことになるかもしれないし)

そう思うその一方で、頭の中にいるもう一人のユーニスが反論する。

(なかったことになる?本当に?一度出てしまった言葉はなかったことになんて出来ないわ。それにあの時の眼差し、声、あの熱量を忘れる事が出来て?)

ダニエルから愛を告げられたあの日の衝撃は、決して素晴らしいものではなかった。
これまでの自分のすべてを否定されたかのような悲しみ、大事な教え子が道を踏み外すきっかけになってしまった苦しみだけが、ユーニスの胸を支配した。

そして神は残酷にも、新たな試練を与えた。
それは、心境の変化である。

教え子からの告白により、ユーニスは己が適齢期の女であることを知ってしまったのだ。
悲しくおぞましいだけであるはずのその告白が心を浮き立たせるものとなってしまい、だからこそユーニスは苦しむしかない。

異性から性的な目で見られることはよくあったが、心を欲しがられたのはこれが初めてであった。

ユーニスはこれまで、恋をしたことがない。
また、恋に憧れたこともない。
両親が健在で、貴族令嬢であり続けることが出来たのなら誰かと恋をしたかもしれない。
だが、働かなければ生きていけない身の上で誰かと恋愛出来ると思うほど、楽観的な性格ではなかったのだ。

自分とは無縁のもの。
そう断じていたものが、ある日いきなり降ってきた。
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