シンガポール・スリング
老婦人はいきなりテーブルの上にある未希子の手を握った。
「あなたの名前を知っているの。河本・・・未希子さん・・・よね?」
「え?・・・」
「今まで知らないふりをしていて、ごめんなさい。でもどうしても時間が必要だったの。河本未希子さん、28歳。大学を卒業して一般企業に2年働いて退職。その後カフェで働きながらバリスタの勉強をして、1年間オーストラリアで英語とバリスタの研修を受けて、ホスピタリティーコースを修了。・・・あってるかしら?」
未希子はぽかーんと口を開けたまま、老婦人の話を聞いていた。
「気味が悪く思うわよね。本当にごめんなさい」
「・・・どうして・・・どうして私をお調べになったんですか」
「それは・・・あなたが河本宗次郎さんのお孫さんだから」
久しぶりに聞いたおじいちゃんの名前に未希子は目を大きく見開いた。確かに未希子の祖父は少し名が知れた人物で、県議会議員やらを2期やっていたらしいし、いろいろなところにつながりを持っていたのも確かだ。しかし、未希子にとって祖父と言えば、家の縁側でお茶をすすりながら、囲碁クラブの付録”次の一手”を片手に、囲碁をしているどこにでもいるおじいちゃんであった。まさか2年前に亡くなった祖父が今目の前にいる老婦人とつながっているとは知る由もなかった。
「私と主人の英二さんは宗次郎さんにとてもお世話になっていたの」
そう言うと、未希子の祖父である宗次郎との馴れ初めを話し始めた。老婦人は中国人の両親と共に、日本に来て事業を進めていったこと、優美が英二と出会い恋をし、家族の猛反対にあったこと。英二のことを親身になって相談に乗っていた宗次郎のおかげで結婚できたことなどを淡々と話した。
「血は水よりも濃しって言うけれど、日本にいる中国人は今と違って小さなコミュニティーの中だけで精いっぱい生きていたの。変だと思うかもしれないけど、私の両親は日本に憧れて渡ってきたのに、中国人コミュニティーと縁を切るなんてできなかったのね。同じ言葉を話して、同じ考えを持って、同じように日本に憧れてきたもの同士。両親はそんな日本にいる中国人との結婚を望んでいたわ。でも私は英二さんと出会った。日本が大好きなはずなのに、日本人との結婚は大反対だったわ。英二さんに嫌がらせをして別れさせようともした。私は英二さんと一緒なら勘当されてもいいと思っていたんだけど、それを止めたのが宗次郎さんだったの。私と英二さんを前に自分の両親、相手の両親を説得できずに幸せ何ぞ手に入るかって叱ってくれた。宗次郎さんの前で二人して正座して」
くすっと笑いながら老婦人は懐かしそうに目を細めた。いつものんびりしていた祖父の姿しか思い出せない未希子にとって、老婦人の話は誰か別の人のことのように思えてならなかった。
「私達二人にとって、宗次郎さんは時には父のようで時には兄のようだった。・・・フフフ。そうはいっても英二さんと二つしか年は違わなかったけど。」