拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
廉佑は手紙で将棋の話をしない。
前回の手紙も、消印からすると叡王戦の決勝トーナメントで敗退した翌日に投函されているのに、そのことについては触れられていなかった。

だから芙美乃も書けない。
本当は毎日対局の予定を調べているし、結果も知っている。
中継がある日は、お昼休みにこっそり覗いてもいる。
勝てばうれしくてひとりで拍手する。
負けるとため息が出る。
でもそのことは書けない。

廉佑が唐突に頭を上げた。
ずっと触っていたせいで髪はあちこち跳ねていた。
眼鏡の位置を直し正座になる。

ひと呼吸おいて、盤に手を伸ばす。
同時に、盤面を映した大きな画面でも上の方から手が伸びてくる。

きれいな手だった。

真っ直ぐに長く伸びた指先が、盤上の銀を掴む。
指先と関節だけがほんのりとピンク色で、きれいなのに生命力を感じる手だった。

廉佑の手つきには、特に怯えも気合いも感じられない。
ごくあっさりしていた。
取った銀は駒台に乗せられ、その銀のあった場所に桂馬を跳ねた。
しずかな対局室に駒音が響く。

「きれい……」

駒は、人差し指と薬指で挟み、宙で人差し指と中指に持ち変えて指す。
日常で決してすることのないその動きを、廉佑は一切の無駄なくくり返す。
そこからは、彼の積み上げてきたものの一端が感じられた。

吸い寄せられるように芙美乃はタブレットに顔を近づけた。

相手は廉佑の桂馬を角で取る。
その手つきは廉佑のものより優美で、たっぷりと余韻を取っていた。

廉佑は2Lのペットボトルからグラスに水を注いで飲んだ。
そして歩を掴むと器用にくるりと回してひとマス進める。
駒を動かす手つきは、水を注ぐ手つきと変わらなかった。
誰かに見せるためのものでも、美を追求したものでもない。
機能美、職人芸、そういう領域のものだ。

――ずーっと見ていたい。

しかし廉佑は離席していて、指し手も止まっている。
画面上で動いているのは時間表示くらいで、消音しているわけでもないのに音もしない。
対局室の沈黙は深淵のようだ。
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