あなたを満たす魔法
 ──元々手先が器用だった逸陶は、幼馴染や母のメイクやネイル、髪型のセットを学生時代から暇つぶしに見ていた。それが意外と本人たちにも、本人たちの友人らにも好評で、褒められることに関して逸陶も悪い気はしていなかった。母に、全体の美のバランスを考える美容学校とか向いてるんじゃない? そう言われ、大学へ通いながら、夜間は美容専門学校へ通った。
 しかし、逸陶は最初から美容関係の仕事で食べて行くつもりは、毛頭なかった。その世界は需要はあれど、平均的な収入は低く、成功するのは一握りの人間と聞いていたからだ。それゆえに当初は、精練のつもりで“誰かを綺麗にすること”が好きだからということ。それと、運動部ばかりで培ってきた粘り強さを活かすための所謂“修業”のようなものとして、がつがつと学び続けた。
 すると意外にもこれが向いていて、専門学校の講師の勧めで、とあるコンテストへ出場をしたところ、驚くことに1年生の半ばにして優勝をおさめたのだ。そこから本格的に美容師一本に将来を絞ろうと考え、大学を中退し、コンテストに出続け2度優勝。バイトと勉強、実践の下積み(プロではないので、当時はカットでお金を貰ってはいけなかった)を続け、夜間だった専門学校を全日制へ変え、1年多めに在学したところ、コンテストで名を馳せていたお陰か、卒業をして銀座で有名な経営しているサロンから呼び声がかかる。
 そのサロンは、逸陶の尊敬している美容界のカリスマ的な存在たちが、勤めているところでもあった。それゆえに格式高く名誉もあったので、学校を出たてホヤホヤのひよこをお客に出すわけがない。 万が一の失敗で品位を落としてしまわないようにと、最初はお茶出しや会計のみの仕事だけ。それでもめげず、カットモデルの客を相手にカットをしたり、マネキン相手にカットをしたり。たまに晴市や母に父、親族や友人を相手にカットを続けていたところ、弛まぬ(たゆまぬ)努力をよく見てくれていた今の店長に、きちんとした客相手で仕事をさせてもらえた。
 死ぬ気の努力で培ってたカット技術、マッサージ技術、会話術、シャンプーテク、トリートメントやカラーリングのカラーの選び方、ヘアカウンセリング。それらを発揮し、綺麗になってもらえた初めての客は、上品な老婦人だったが。

『なんだか身も心も若返ったよう。けれど、あなたのお陰で年相応に美しくなれたわ……。本当にありがとう。』

 ──全てを終えて、淡くうれしそうに微笑まれたとき。ああ、俺はこの道を選んできてよかったんだ。こんなに達成感があること、学生時代の部活以来かもしれない。心底そう感じ、妙な感動で泣きそうにもなった。またお越しくださいと初めてそう言ってからは、彼女は今も自分を指名してくれる大切なお客様の一人となる。

 しかしそういうことから、女性を見る時は全体のファッション、小物遣いにヘアスタイルに髪の状態、メイクや肌の状態までパッと見ただけで「ああ、この人はトリートメントの仕方から間違ってる」「化粧の仕方がイマイチだ。もっと明るいトーンのファンデ使ったほうがいい」そんな厳密な判断まで出来てしまい、恋人にそれを呟いて振られたという苦い経験もある。同性の男性のことはもちろんだが、異性である女性のことまでわかりすぎるということも困りものだ。心までは、深読みできないところが特に。……

(けど、こんなガキの衣住食についての約束、放るわけにもいかねーか……)

 会うだけ会ってみるしかない。くそ、K社の新しいトリートメントが出たってーから、小売店に行って確認したかったのに。少しだけイライラしながら、ため息をついて晴市が払わなかった分のお茶代を払い、足早に逸陶は喫茶店を後にした。

next.
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