敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
この結婚にはウラがある?
「今日は帰れるから」

シャツのボタンを止めながら夫の如月総司(きさらぎそうし)がそう言うのを、如月可奈子はダイニングテーブルに頬杖をついて見つめている。

窓の外はまだ薄暗く、都会の街は夜明け前のひと時を刻んでいる。

電車もまだ動いていないけれど、マンションの下には出勤する彼のためにタクシーが待機しているはずだ。

こうやって夜明け前に彼が出発する時は、起きないでいいと言われているが、可奈子は必ず見送るようにしていた。

「可奈子は?」

腕時計を身につけながら問いかける総司は、ごく普通のシャツとジャケット姿。でも可奈子の目には、まるで映画の世界から抜け出してきた俳優かなにかのように映る。

百八十センチの長身に、少し茶色がかったまっすぐな髪。涼やかな目元と高い鼻梁、形のいい唇は微笑むと右側の方が少し高く上がる。この後、職場に着いてパイロットの制服に着替えたら、空港中の女性を虜にするのだ。

「可奈子?」

もう一度呼びかけられて、ようやく可奈子は口を開いた。

「私も早番だから、なにもなければ早く帰れるはず」

可奈子の言葉に総司が微笑んだ。

「じゃあ、今夜は久しぶりにふたりでゆっくり過ごせるな。結婚式以来か」

株式会社NANA・SKYのパイロットである彼は、ついこの間会社記録最年少の三十五歳で機長に昇進したばかり。

国際線と国内線を兼務するから、搭乗する便によって勤務時間がバラバラだ。
家にいられる時間はそう多くない。
それはつい十日前に結婚式を挙げたばかりでも関係なかった。

さらにいうと可奈子の方も同じ会社のグランドスタッフで、勤務は不規則な上にトラブルによる残業は日常茶飯事だから、一緒に住んでいるとはいえ、夕食をともにすることすらままならない新婚生活だ。

今彼が言った通り今夜一緒に過ごせるとしたら、結婚式を挙げて以来だった。

それも今日なにもトラブルがなければ、の話だが。

「今日は福岡便だから、お土産になにか美味しいものを買ってこようか」

そう言って彼は可奈子に歩み寄り、ダイニングテーブルに手をついた。

もう一方の手は可奈子を囲い込むように椅子の背もたれに添えられる。彼が好んでつけているウッディムスクのコロンが甘く可奈子の鼻を掠めた。

髪と同じ少し茶色がかった色の瞳が自分だけを映していることに、可奈子の胸はひとりでに高鳴る。

こんなに素敵な人が自分の夫だということがまだ慣れなくて信じられない。

「お土産はいらないから、気を付けてください」

たくさんの人を乗せて飛ぶというほんのわずかなミスも許されない勤務内容を慮って、可奈子がそう告げると、彼はふわりと微笑んだ。

「ありがとう」

そして可奈子の額にキスを落とす。そのまま、瞼と頬にも。顎に添えられた手に促されるままに上を向くと、優しく唇が奪われた。

「ん……」

素早く入り込んだ彼の熱が、可奈子の中に触れていく。うっとりと目を閉じると頭の中が彼への想いでいっぱいになる。

彼と付き合うようになってから、もう何度も交わしたこのキスは、いつも可奈子を夢中にさせる。

可奈子の大好きな彼のキス。でも今はそこに得体の知れない不安感が確実に混ざり込んでいる。

それはもしかしたら、不可解な彼の日記を見てしまったからというだけではなく、今ここで目が覚めて"夢だったのだ"と言われてもおかしくはないくらいの、分不相応な新婚生活のせいかもしれない。

「じゃあ、行ってくるよ。可奈子、愛してる」

 離れた唇をぼんやり見つめる可奈子の頬にもう一度キスをして、総司は言う。

「いってらっしゃい」

可奈子は意識して笑みを浮かべた。
< 2 / 46 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop