敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
新婚旅行
 ざわざわと搭乗手続きを待つ乗客たちで賑わうターミナルのソファで、可奈子は出来るだけ声を落として呼びかける。
「総司さん、総司さんってば!」
 隣で総司が読んでいる本からチラリと視線を上げて答えた。
「なんだ? 可奈子」
「手を、離して……!」
 そう言って可奈子は近くの十番ゲートにチラリと視線を送る。そこでは航空会社スタッフが搭乗の準備を進めている。
 カウンターには由良をはじめ可奈子がよく知るNANA・SKYのグランドスタッフたち。全面ガラス張りの向こうにはピカピカのジェット機が目的地まで乗客を運ぶべく待機している。もうまもなくしたら、それを運行するパイロットとCAたちがやってくるだろう。
 一方で、ソファに座る可奈子たちは勤務中でもなければ、休憩中でもなく。乗客としてここにいる。新婚旅行で南の島へ行くためである。
 当然可奈子たちに気が付いているNANA・SKYのスタッフたちは、業務に集中するフリをしながら、さっきからチラチラとこちらを見ている。可奈子は身の置き所がないような気持ちだった。
 なにせ皆が見ているというのに、総司は堂々と真ん前のソファに座り、本を持つ手とは反対の手で可奈子の手を握っているのだから。
「総司さん、手を離して」
 可奈子は何度目かのお願いをする。
「私、お手洗いに行きたいの!」
 総司が可奈子をじろりと見た。
「さっき行ったばかりじゃないか」
「うっ……、え、あ、じゃ、じゃあ、売店に」
「それもさっき行ってたぞ」
「でも……」
 総司が持っていた本を傍に置いた。
「可奈子、俺たちは今、プライベートなんだ。なにもそんなにびくびくすることはない。今までだって社員割で自社便に乗ってたんだろう?」
 確かにそれはそうだけれど、ひとりで乗るのと彼と一緒に乗るのではわけが違うと可奈子は思う。しかも行き先が新婚旅行なのだ。
 これからふたりが乗る便は、天国に一番近い島と呼ばれる南の島への直行便だ。可奈子たち以外の乗客も他の大都市へ行く便と比べると心なしかカップル率が高めだ。
 総司が、もうひと言付け加えた。
「社員が家族旅行や新婚旅行で自社便にを使うこともしょっちゅうだ」
 その通りだ。だからスタッフは皆慣れたもので、今更驚くようなこともなく、いつも通り業務を進める。でも総司と可奈子の場合は、ちょっと違うと思うのは自意識過剰だろうか。
「堂々としていればいい」
 そう言って、繋いだ手に力を込める総司に可奈子はため息をついた。
 彼の目論見はわかっていた。彼は、自分が可奈子を妥協で選んだのだと社内で言われていることに我慢がならないのだ。
 あれこれ言われることについて可奈子が気にしないなら様々な噂話を放っておくのはよしとしても、これだけは許せないと。
 彼の前田のCAとの恋愛禁止令話は、どうやら総司がきっぱりと否定するより先に美鈴が誰かに話してしまっていたようで、一部のCAたちの間で広まっていた。それを総司がまた別口で耳にしたのである。
 スパイ疑惑が晴れてから、海外ドラマを通じてすっかり仲良くなった里香が、同僚たちに否定してくれてはいるものの、それでは納得できないようだ。
 見せつけるように新婚旅行に自社便を選び、ファーストクラスを予約しておきながら、ラウンジにも行かずカウンターの前のソファに座っている。
「総司さんって、案外子供みたいなところがあるのね」
 可奈子は頬を膨らませて呟いた。
 総司が眉を上げて可奈子を見た。
「だって、私なにを言われても気にならないって言ってるじゃない。それなのにいつまでもこだわって……」
「俺だって基本的にはそうだ。でも可奈子が侮辱されるのは許せない。そもそも前提が間違っているだろう? 俺が可奈子を選んだんじゃない、可奈子に俺が選ばれたんだ」
「ちょっ……! カウンターまで聞こえるじゃない」
 可奈子は慌てて彼の口を押さえる。
 おそらくはもうほとんどやることは終わったであろう由良と他の同僚たちが、にやにやしている。トランシーバーを片手に持って、由良がこちらへやってきた。
「お客さま、優先搭乗までもうまもなくでございます。もう少々お待ちください」
 わざとらしく言う由良を可奈子はジロリと睨む。総司がにっこりして応えた。
「ありがとう。楽しみだよ」
 由良がふふふと笑みを漏らして、こっそり可奈子に耳打ちをする。
「この様子だとマリッジブルーは完全に終わったようね。仲良く言い合いしちゃってさ。なにがあったか知らないけど、末永くお幸せに!」
 そう言って持ち場へ戻っていく。その後ろ姿を見つめながら、可奈子は申し訳ない気持ちになった。彼女には随分心配をかけてしまった。
 それなのに可奈子は本当の理由を、彼女には言っていない。……言えるわけがないからだ。
 そこへ。
「本日は幸せな人生の門出に、NANA・SKYをお選びいただき誠にありがとうございます」
 声のする方を見ると、いつのまにか機長の前田と副操縦士の小林が並んで立っていた。
「お前の新婚旅行を担当するなんて、感無量だ」
 意気揚々として前田が言う。
「前田さん、今日はよろしくお願いします」
 総司が答えた。どうやらフライトスケジュールをあらかじめチェックしていたようで特に驚いた様子はない。前田の方も総司が搭乗することはわかっていたのだろう、随分と時間に余裕をもって姿を見せた。
「しかし今日の運航は大丈夫かな、CAたちは涙涙で、勤務にならないんじゃないか?」
 戯ける前田に、総司は肩をすくめた。
「まさか、ちゃんとやってくれますよ」
 すると前田の後ろの小林が「泣くのはCAだけじゃありませんよ」と恨めしそうに言い、可奈子と総司の繋いだ手をチラリと見る。
 総司が気まずそうに咳払いをして、ようやく可奈子の手を解放した。
「小林、お前意外としつこいなぁ。失恋くらいで泣いてフライトに支障が出るなら、機長試験に落ちるぞ」
 呆れたように言う前田の言葉に可奈子は目を剥いた。
「大丈夫ですよ、僕やる気はありますから。でも前田さんが指導係っていうのがちょっと……如月さんがよかったなぁ。無駄に指示が的確ですから」
「あ、お前、それ言っちゃう?」
 やり合うふたりに総司が苦笑している。可奈子も微笑ましい気持ちで聞いていた。
 そんな軽口は絆の深いパイロット同士だからできる会話だ。それを可奈子は微笑ましい気持ちで聞いていた。
 そういえばぼんやりとしか覚えていないが、父が家にパイロット仲間を招いた時もこんなやり取りをして声をあげて笑っていた。
「でもお前、如月がよかったっていいのは間違いだ。こいつは実はドがつくSだ。新入社員研修の講師をしているのを見た時に俺は確信したね」
 前田が小林にそう言ってニヤリとして総司を見た。
「まさか」
 総司がそれを否定した。
「僕は無駄に厳しくしたりはしていませんよ」
「いやそれはそうなんだが、ねちっこいんだよ、お前。にっこり笑ってできるまでやり直しをさせてただろう。自分でも気が付いてないのかもしらんが、深層のSだ」
「言いがかりですね。できないことがあるなら、できるまで付き合うのが上司の務めでしょう」
 ばかばかしいとばかりに総司が肩をすくめる。
 可奈子はそれを微妙な気持ちで聞いていた。
 すべての誤解が解けて仲直りをした日の夜の出来事が頭に浮かんだからだ。あの夜"自分の気持ちを言えるようになる練習だ"と言った彼は、にっこりと極上の笑みを浮かべて本当に最後まで可奈子にたくさんの言葉を言わせたのだ。
 可奈子が涙を浮かべて頼んでも許してはくれなかった。そしていつもの何倍もの時間をかけて、愛されているのだということを可奈子にしっかりと刻み込んだ。もちろんそれは幸せな時間でもあったのだけれど……。
「ははは、おい如月。奥さんの方が正直だぞ。お前の本性をわかっているみたいだ」
 可奈子の様子にめざとく気が付いて前田が笑う。
「お前、なにをやったんだ?」
 その言葉に可奈子は真っ赤になってしまう。頭に浮かんだことをそのまま見透かされたような気がしたからだ。もちろんそんなことはないだろうけど……。
「そそそそんなこと、あ、ありません!」
 一生懸命に否定をするが、それは逆効果のようだった。可奈子の反応に、前田がはははと声をあげている。
「奥さんも大変だなぁ。んじゃ、俺たちはこれで。良い旅を、伊東さん。行くぞ小林」
「……はい」
 小林が残念そうに可奈子を見て、しょんぼりとして前田の後に続く。
 搭乗していくふたりの背中を見送りながら、総司が眉を寄せた。
「可奈子、俺可奈子になにかしたか?」
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