閉園間際の恋人たち




「いえ、秘密……というわけではないんですけど……」

でも、笹森さんに蓮君のことは話したくなかった。

「ま、そのへんは琴子ちゃんの好きにしたらいいとは思うけど。どうせあいつのことだから、北浦君のことを持ち出されても引く気なんてなさそうだし」
「……でも笹森さんだって、別にそういう感じの話をしてらしたわけでもありませんでしたよ?」

もう一度やり直したいと言われてもいないし、今の連絡先を訊かれもしなかった。
”大切な女性” とは言われたけれど、一度は共に人生を歩もうと決めた相手なのだから、それはある意味真っ当な線引きとも言えるはずだ。

「そりゃ初日だしね。いきなりぐいぐい行って、琴子ちゃんに逃げられたら元も子もないだろう?それより……笹森が言ってた ”工藤さん” って、もしかして、大和君のお母さんのことかい?」

薄暗い車内で何となく前を向いて受け答えしていた私は、おもむろに和倉さんを振り向いた。
なぜ和倉さんがそれを……?
疑問が浮かんだけれど、ちょっと想像すれば自ずとその理由に思い当たる。

「……大和ですか?」
「当たり。『ぼくの本当の名前は工藤 大和っていうんだよ』と、元気溌剌に教えてくれたことがあったからね」

和倉さんは思い出し笑いを浮かべたが、私の記憶にそんなシーンは残っておらず、ゆえに、彼ら二人きりのないしょ話だったのかもしれない。
秋山姓で幼稚園に通うと決まった際、他にも名前があると知ったらみんなびっくりするだろうから、工藤の名前を誰かに話すときは必ず私に教えてねと、何度も約束していたのだから。
その約束を忘れてまで打ち明けるなんて、そこまで和倉さんに懐いていたということだろうか。


「そうでしたか…」
「その鈍い反応を見ると、もしかして本当の名前のことも秘密だったのかな?」
「いろいろ複雑な生い立ちなので……」
「それもそうだね。でも大和君を叱らないであげてくれるかい?知り合って間もない頃、俺の苗字の中に大和君と同じ漢字があるって教えたらすごく興味持ったみたいで、そこから苗字の話題になっただけなんだ。もちろん、俺に何か他意があったわけでもない」

するすると言い訳が流れてくるところは、優秀な弁護士の面影を感じた。

「和倉さんを疑ったりなんかしてませんよ」

私の返事に和倉さんは「それはよかった」と大げさに胸を撫で下ろしたが、間もなく「でもさ」と若干声色を沈めた。

「ということはつまり、その工藤さんが亡くなってること、笹森は知らないままなんだね」

いいのかい?
そんな確認めいた眼差しを寄越されてしまう。
でもこれは、理恵本人の強い意志なのだ。

「彼女がそう望んでいましたので」
「笹森には教えるなって?」
「……前の職場の人には知らせないでほしいとのことでした」
「そう。それなら仕方ないね」

意外にもすんなり引きさがってくれた和倉さんに、私は話題が変わらぬ前に口止めを急いだ。

「あの、このこと笹森さんには…」
「言わないよ。大丈夫」

和倉さんはサッと表情を和らげて即答してくれた。
彼が笹森さん側の人間だとは認識しているけれど、職業柄、秘密保持の意識は高いと信じていいだろう。
けれどタクシーがマンション近くまで来たとき、

「でもあいつのことだから、きっと事実を突き止めるのにそう時間はかからないと思うよ?」

ふと思い出したような調子でそう言われた私は、全身がぞわりと震えてしまいそうになったのだった。



ずっと隠し通せたらいいと思っていた。
だけど隠し通すのは難しいだろうとも、どこかで覚悟していた。
でもできることなら、できるところまでは、隠し通したかった。


和倉さんと別れ家に戻った私は、誰もいないがらんとした静寂に泣きそうになった。

明日になれば、大和は実家からここに戻ってくるのに。
一人きりの部屋はあまりにも広く感じてしまって、無性に寂しくて。

「大和……」

呟いたあと、私はほとんど無意識にテレビボードのフォトフレームに手を伸ばしていた。

「理恵……」

朗らかに笑ったまま時を止めた親友を指でなぞるも、何も伝わってはこない。
もし理恵が生きていたら……そんな不毛な物語に思いを馳せたのも、一度や二度じゃない。
だけど現実は切ないほどに虚しくて。


私は、これから笹森さんに暴かれるかもしれない真実がいったいどこにまで達するのだろうかと、それだけが怖かった。
今もおそらく、私以外は気付いていないだろう真実。
それだけは、笹森さんにも、他の誰にも、知られたくはなかった。
理恵が文字通り死ぬまで隠し通したかった真実を。



大和の父親が、笹森さんだという真実を――――――












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