ある日、マンガ家が落ちていて
 炬燵に入る笹岡をそろり、と見る。笹岡は蜜柑の皮をゆっくり剥いている。
 今夜、笹岡さんと二人っきりってこと…?!
 笹岡の意識が蜜柑に向いているのをいいことに、あゆみはまじまじと笹岡を見た。背が高くて、すらりとしている。今まで口にした言葉は少なく、あまりハイテンションになることはなさそうだ。ぱっと見て、草食系に見える。
 草食系と見えて肉食ってことも…健全な男子であるのには変わりないわけで…
 あゆみは、自分の貞操とファン心理を天秤にかけた。答えはすぐに出た。ファン心理が勝った。私だってもう27歳だ。隙を見せない振る舞いくらいできる。
 あゆみは、ざっとメニューを決めて、料理にとりかかった。一週間分の食材を今日使ってしまってもいい。億ションに住むような人にできる最大のもてなしと言ったら手を尽くした料理くらいだ。
 三十分くらいで、青菜とイカの炒め物と、鶏の唐揚げ、小松菜の煮浸し、具沢山のスープと次々に作っていった。
「すごいな。居酒屋さんみたいだ」
 笹岡が感心した声を出した。あゆみは喜んでもらえそうで、ほっとして言った。
「笹岡先生は、お酒は飲まれますか?」
「まあ、少し」
「よかった!色んなビールがありますんで、お好きなのをどうぞ」
 と、冷蔵庫の横にあった、ビール専用の小さな冷蔵庫を開いてあゆみは言った。
 その小さな冷蔵庫の中にはありとあらゆる国のビールが詰まっていた。ヨーロッパやインド、イギリスにネパールにアジア。ちょっとしたビールフェアができそうなラインナップ。
「わあ…ビールがお好きなんですか?」
 表情が変わらない笹岡が、ものすごくびっくりした顔をした。
 あゆみは苦笑した。
「ええ…なんというか、前職の名残で」
「ぜんしょく」
「はい。私、東条デパートの正社員なんですが、二ヶ月前までは、デパ地下担当だったんです。主に酒類の営業を任されてました。で。どうにかして、売り上げを伸ばさなきゃいけないから、地ビールフェア、欧風ビールフェアとか色々企画してやってました。私もお酒はまあまあ好きなんで、楽しかったです」
 実はまあまあどころでない、酒豪なのだが、ちょっと控えめに言った。
「へえ…あれ?今は、違うんですか?」
「今は…その。あ、これおすすめのドイツビールです。どうぞ」
< 8 / 28 >

この作品をシェア

pagetop