エリート課長の脳内は想像の斜め上をいっていた

02.課長との出会いは衝突事故

 目覚まし時計で殴って昏倒させてしまったのは、先月海外支社から日本へ戻って来た、斎藤隼人課長。

 入社してから異例の早さで昇進していった彼は、30代前半という若さで課長に抜擢されるほど仕事が出来る、所謂エリート社員だった。
 着任前から社内中の話題をさらい、朝礼で挨拶をした時はその外見の良さから女子社員達の目がギラギラと輝いていた、らしい。らしいというのは、麻衣子は全く彼に興味を持っていないからだ。

 大概の場合、高嶺の花には、お似合いの相手がいると決まっている。
 全く興味を持たない相手なのに、顔がいい仕事が出来るだけの課長を、アイドル的視点で見る気も無かった。
 麻衣子の好みは綺麗な顔をしたエリート男性ではない、平凡で普通の枠に収まる庶民的な感覚を持つ男性。
 斎藤課長が着任してからひと月の間は直接話す機会はもちろん無く、姿が視界に入った時は目の保養、観葉植物くらいにしか思っていなかった。

 ほぼ面識の無い斎藤課長と何故か話すようになったのは、三日前の昼休憩時間から。


 その日は朝から最悪だった。
 五年近く愛用している脱毛器が壊れてしまい、仕方なく洗面台の下から引っ張り出した剃刀で腕と脹脛のムダ毛の処理をして会社へ向かった。


 満員電車を耐えて出勤して早々、机の引き出しの角が引っ掛かって伝線したストッキングをトイレで脱ぐはめになり、それだけで気分は落ち込む。
 昼食休憩に入って直ぐ、近くのコンビニへ走って行った麻衣子は、昼食とストッキングを買い会社へ戻ると急ぎ足でロッカーへ向かった。
 パンプスの蒸れ防止でスニーカーソックスだけは履いていたが、スカートの中がスース―しているのはどうにも落ち着かず前方不注意だったのが悪かったのだ。

 ロッカールームへ続く廊下の曲がり角を曲がろうとした時、突如目の前に黒い人影が現れた。

 ドン!

「きゃあっ!?」

 前方から来た人影に弾き飛ばされるように、よろめいた麻衣子は固い床に尻もちをついた。

「うぎゃっ」

 床に強か尻を打ち付けてしまい、色気の全く無い悲鳴を上げて腰を押さえる。

「君は……?」

 ぶつかった相手の戸惑う声が聞こえ、顔を上げた麻衣子はそのまま数秒間固まってしまった。

「えぇ、課長?」

 ずれた黒縁眼鏡のフレームを人差し指で押さえた斎藤課長は、コンビニ袋から転がり落ちたストッキングを拾い、ストッキングと麻衣子を交互に見て眉を寄せた。

「ありが、あぁ! す、すみませんでした!」

 慌てて立ち上がった麻衣子は、斎藤課長のワイシャツにコンビニで買い片手に持っていた珈琲カップの中身がかかってしまっているのに気付き、ギョッと目を開いた。

「お怪我は? それにシャツにシミが、あ、あの、クリーニング代は出しますから」

 冷めていたことだけは不幸中の幸い、ではなく混乱した麻衣子は必死で頭を下げる。
 斎藤課長の来ているワイシャツは、高級海外ブランド製。
 かかった珈琲の染みを綺麗にするのには、どれだけの金額がかかるのか。麻衣子の顔色が青くなっていく。

「あ……これくらい、いいよ。替えのワイシャツは持っているしね」

 首を動かして、ワイシャツの染みをチラリと見た斎藤課長は何てことないかのように言い、拾ったストッキングを麻衣子へ手渡す。

「それよりも、君の方は大丈夫だった?」
「は、はい」
「じゃあ、気を付けるんだよ」

 外見通りのイケメンっぷりを発揮した斎藤課長は、僅かに微笑むと颯爽と去って行った。


 最悪な印象を持たれたと思っていたのに、その翌々日に斎藤課長主催の飲み会へのお誘いを受けるとは思ってもいなかった。
 恐れ多いと一度は断ったのに、斎藤課長本人から「参加して欲しい」と誘われてしまえば、前方不注意でぶつかってワイシャツを汚した負い目もあり飲み会に参加することを了承してしまった。
 参加を了承してしまったこの時が、運命の分かれ道だったのかもしれない。



 飲み会では、男性陣へのアピールではなく目立たないことを第一に考えて隅の席に座り、ほとんど会話には参加しないで注文や食事の取り分け係に徹していた。
 飲み会がお開きとなったら、駅前のラーメン屋で一人豚骨ラーメンを食べて帰ろうと思っていたのに、どうしてホテルのベッドで寝ていたのか。

(なんでこんなことになったんだろう……)

 どうにかしてホテルへ行った経緯を思い出そうとしても、飲み会の途中からの記憶はごっそりと抜け落ちていた。


 自宅へ戻った麻衣子は、週末休みの二日間をカーテンを閉め切った部屋で頭から毛布をかぶって過ごした。
 いつか警察が訪ねて来るのではないかという不安から、少しの物音にも怯え食事は喉を通らずほとんど眠ることも出来ない。
 テレビニュースやネットニュースが気にはなっても、怖くて見ることは出来ずに部屋に閉じ籠り、いつか罪悪感でと恐怖で狂ってしまうかもしれないと、震えていた。



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