天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
チョコレートよりも甘い休憩時間
 穂乃果の口から彼を好きじゃないとはっきり聞くまでは別れないと言った拓巳だけれど、週が明けた月曜日はまた上司の顔に戻っていた。
 挨拶回りが中心だった先週とは違って、今週からは本格的な業務が始まる。彼から飛んでくる指示も難しい内容のものが増えていた。
「副社長、会合おつかれさまでした。次は隣県での現地視察です」
 ふたりが乗り込むとすぐに走り出した車の後部座席で穂乃果は彼に向かって次のスケジュールの確認をする。
 時刻は正午を回ったところ。
 午後二時到着を予定している隣県の現地まで所要時間は約一時間だから、十分に余裕がありそうだと思い穂乃果は安堵した。
 部長時代も彼のスケジュールは把握していたが、それはあくまでも業務をする上で必要だからそうしていただけで、管理は彼自身がしていた。
 けれど秘書となったこれからは彼が滞りなくスケジュールをこなせるかどうかの責任は穂乃果にかかっている。異動になって大きく変わったことのひとつだった。
「この後、サービスエリアに寄って昼食を調達しますから、車内にてお召し上がり下さい」
「なるほど、じゃあ、今日はこの移動時間が俺の昼休みってわけだな」
 拓巳からの確認に、穂乃果は少し申し訳ない気持ちで頷いた。
「はい……すみません」
 本当ならどこかできちんとした休憩時間を取ってもらうのが理想だが、あちこちから仕事の話が舞い込む中、すべてを回すだけで精一杯で、休憩時間までは十分に確保できないのが現状だ。
 昼食は車の中で移動中に、という日が続いている。
 穂乃果の謝罪に、拓巳が首を横にふった。
「いやただ確認してただけで、責めているわけじゃないんだ。それに移動中が休憩時間なのは、君も同じだろう? むしろこちらが申し訳ない。これだけの案件を効率よく回れるのは君の頑張りのお陰だ」
 そう言って今度は拓巳が申し訳なさそうにする。その彼を、穂乃果は心の底から好きだと思う。
 彼は穂乃果が精一杯やっていることをきちんと認めてくれている。無理なことや無駄な謝罪を要求したりはしないのだ。
 彼との関係がネックになって、当初この異動には戸惑いが大きかった穂乃果だが、こうして彼のそばで働けることはやっぱりとても嬉しかった。
 しばらくすると高速を走っていた車が昼食を買うためにサービスエリアに停車する。拓巳がシートベルトを外した。
「リクエストはあるか?」
 自ら買いにいくようなそぶりをみせる拓巳に、穂乃果は慌ててシートベルトを外した。
「私が行きます! 副社長こそなにがいいですか」
 でもそれを拓巳は了承しなかった。
「いや、俺が行く。サンドウィッチでいいか?」
「でも」
「移動中は休憩だとさっき君は言っただろう? 穂乃果も休みなんだから、今は上司も部下もない。恋人に昼食を買いに行かせるような趣味は俺にはないよ」
 そこまで言って拓巳はにやりと笑みを浮かべる。そして眉を上げてからかうように問いかける。
「それとも一緒に行くか? 手を繋いで」
 その言葉に穂乃果は真っ赤になって首をブンブンと振った。
 ふたりで仲良く手を繋いでランチを買いに行ったりなんかしたら、間違いなく運転手に不信がられてしまう。
「サッサンドウィッチで、お願いします」
 たったひと言で穂乃果を黙らせて、拓巳はドアを開けて外へ出た。運転手と二言三言言葉を交わしてから、サービスエリアに向かっていく。おそらく運転手の分も買ってくるのだろう。
 穏やかな午後の日差しの中をサービスエリアに向かって歩いていく後ろ姿に穂乃果の鼓動は走り出す。彼を嫌いとひと言いえば終わりを迎えるふたりの関係。いつか言わなくてはならないのに、それをできる自信は今の穂乃果にはまったくない。
 それどころかどんどん好きになっていくのを感じている。自分では止められない列車に乗ってしまったような気がして、途方に暮れるような思いだった。
 ほどなくして彼が戻り、また車は走り出す。
 彼が買ってきてくれたハムサンドを穂乃果は落ち着かない気持ちでぱくついていた。
 あっと言う間に自分の分を食べ終えた拓巳が穂乃果のヘッドレストに手を付いてジッとこちらを見ているからだ。身体は完全にこちら側を向いていて、およそ勤務時間中のの上司と部下の距離ではない。
 少し甘い彼の香りが穂乃果の鼻を掠めた。
「た、足りなかったんですか?」
 尋ねると、彼は目元を緩めて口を開いた。
「いや、可愛いなと思って見てるんだ。俺、穂乃果が食べているところを見るのが好きだな」
「ふ……!」
 思わず大きな声をあげてしまいそうになって穂乃果は慌てて口を閉じる。運転席をチラリと見て小声で抗議した。
「副社長! そういうことを勤務時間中に口にするのはやめてください。名前も……困ります! 運転手さんに聞かれたらどうするんですか?」
「べつになにも」
 拓巳が肩を竦めた。
「今は休憩中なんだろう? それに獅子王(うち)の運転手は一流だ。万が一なにかに気が付いても役員のプライベートに関わることをペラペラと喋ったりしない」
 べつに誰かにしゃべられなくても、穂乃果にとっては気付かれるというだけで困るのだ。それなのに、バレてもいいと言う彼が信じられなかった。
 とはいえ、彼を説得する自信もなくて、穂乃果はサンドイッチを一生懸命もぐもぐする。にっこりとしてジッと見つめられてはあまり味を感じなかった。
「ご馳走さまです」
 ウエットティッシュで口を拭きながらそう言うと、小さな箱が目の前に差し出される。お土産用の生チョコレートだった。
「デザートだ、穂乃果チョコレート好きだろう?」
 またもや穂乃果の名を口にして完全にプライベートモードで彼はいう。穂乃果は目を剥いた。
「ちょ……! 副社長」
 小声で抗議するがあまり意味はないようだ。
 拓巳は平然として楽しげに包装紙を開けている。そして中のひとつを摘み穂乃果の口に放り込んだ。
「午後からも元気に働けるように」
 チョコレートは口の中ですぐに溶けてなくなった。彼の言動と同じようにとろけるように甘かった。
「どうだ? 新商品みたいだったけど」
「おいひいです」
 もぐもぐしながらそう言うと「そうか」と言ってふわりと笑う。そしてもうひとつ穂乃果の前に差し出した。
 チラリと彼に視線を送ると、彼は眉を上げて頷く。こんな風に食べさせてもらうなんて子供みたいじゃないかと思うけれど、チョコレートの誘惑には勝てなくて、穂乃果はためらいながらそのままそれをパクりとする。
 すると頭が大きな手に包まれて、「俺にもくれる?」という彼の言葉に穂乃果が答えるまもなく、突然唇が奪われた。
 素早く入り込んだ彼の舌が、穂乃果の中で溶けて半分になっていたチョコレートを絡めとる。そしてそのまま、穂乃果の中に触れてゆく。
 彼のシャツを握りしめて穂乃果は突然の甘い攻撃に一生懸命に耐える。万が一にでも恥ずかしい声が漏れて、運転手に気付かれることがないように。
「ん……ふ……」
 勤務時間中の車内には不似合いなふたりの荒い息づかいが、穂乃果の耳を真っ赤に染める。
 頭の片隅でこんなことはダメだと考えるのに、彼のキスが気持ちよくてたまらない。こんな風に感じるのは、自分でも知らない自分の身体の反応だ。たった二回彼に抱かれただけなのに、まるで身体が作り替えられてしまったようだった。
「ん、確かにうまい」
 くたりと背にもたれて、ぼんやりする穂乃果を見下ろして満足げに拓巳は笑う。ペロリと唇を舐めるその仕草も、仕事中のそれではなかった。
「ほら、穂乃果。もうひとつ食べろ」
 ……彼の唇と手によってすべてのチョコレートを食べ終える頃、車が目的地に到着する。
 窓の外に視線を送り、拓巳は身体をおこしてネクタイを整えた。
「有意義な休憩時間だったよ。俺の秘書は優秀だな。これからも休憩は、車内で取れるよう取り計らってくれ」
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