天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
穂乃果の決断
 波乱の視察から東京へ戻った翌週の金曜日、穂乃果はある決意を胸に、拓巳のマンションを訪れた。
 彼に別れを告げようと思っているのだ。
 視察で危ういところを救ってくれた拓巳。巨額の取引きを棒に振ることに微塵の迷いも見せなかった。
 彼はきっとあの場にいた社員が穂乃果でなくたって同じことをしていたに違いない。
 彼の腕の中で泣きながら東京へ帰った日、穂乃果は確信した。
 彼への想いは無限大だ。彼を知れば知るほど果てしなく大きくなってゆく。
 このままでは本当に別れられなくなってしまう。そうなる前に別れなくては。
「なにか作るからソファで待ってろ。それとも先に風呂に入るか?」
 家に入るなりそう言って、拓巳はキッチンへ向かおうとする。その彼を穂乃果は引き止めた。
「拓巳さん」
 わざと彼を名前で呼び、決意を込めて彼を見つめる。
 ふたりの時は名前で呼べとさんざん言われていたのに、今まで穂乃果はそうしなかった。でも最後だから、最後くらいは恋人らしくいたかった。
 拓巳が怪訝な表情で振り返った。
「穂乃果?」
「別れてください拓巳さん」
 間髪入れずに穂乃果は言う。少しでもタイミングを逃したら言えなくなってしまうような気がした。
 たくさんの愛を受けていながら、なんて冷たい言葉なのだと自分でも思う。でも言わなければ、どこまでも彼を好きになってしまって底なし沼に沈んでいくような気がしたのだ。
 自分の意思で引き返せるのチャンスはもう今しかない。
「穂乃果、……本気で言ってるのか?」
 拓巳が低い声で確認するように言う。鋭い視線が、本心を読み取ろうと穂乃果を刺した。
 穂乃果はこくりと喉を鳴らして、彼から目を逸らさずにまた口を開いた。
「本気です。別れてくださいって私の口からちゃんと言えれば、納得してくれるって拓巳さんは約束してくれましたよね」
 問いかけると、拓巳は苦しげに「ああ」と言う。
 穂乃果は一旦目を閉じて、挫けそうにな自分の心を励ました。
 そして「だが……」と言いかける拓巳の言葉を遮った。
「私は拓巳さんのこと、好きじゃありません。上司としては尊敬していますが、恋人として一緒にはいられません」
「穂乃果……」
 困惑して傷ついたような拓巳の視線がつらかった。こんなこと本当は言いたくはない。穂乃果は彼が大好きだ。誰よりも彼のすべてを愛している。
 でも言わなければ、穂乃果は彼のすべてを失ってしまうのだ。
 尊敬する上司としての拓巳。
 恋人としての彼。
 このまま恋人同士の関係を続ければ、いずれは穂乃果が二ノ宮不動産の関係者だと彼にバレてしまう。その時、彼は穂乃果に不信感を抱くだろう。そしたら穂乃果はもう部下としても彼のそばにいられなくなってしまうのだ。
 それは絶対に嫌だった。
 恋人として結ばれることがないのなら、せめて信頼できる部下としてできるだけ長く彼のそばで彼の役に立ちたい。穂乃果の願いはそれだけだ。
「仕事はきちんとやります。やらせてください! でも、恋人にはなれません。……申し訳ありません」
 頭を下げると、堪えきれない涙が溢れた。言えない想いが後から後から流れ出る。もし今こんな顔を見せてしまったら、すべて彼に悟られてしまう。
 穂乃果の下手な言い分など見透かされてしまうだろう。
 そんな顔を見せるわけにはいかないから、穂乃果はそのまま踵を返しマンションを後にする。
「穂乃果‼︎」
 拓巳に名前を呼ばれても振り返らなかった。
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