天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
穂乃果の事情
 とんでもないことになってしまったと頭の中で繰り返しながら、穂乃果は自宅までの道のりを早足に歩いている。最寄りの駅から徒歩圏内の閑静な住宅街は朝日に照らされている。
 緩やかな坂を上り切ったところにある大きくてモダンな一軒家が、穂乃果の自宅だ。セキュリティ万全の大きな門を、持っている鍵で開き、広い庭を横切って玄関のドアの前で、穂乃果は一旦深呼吸をした。
 昨夜穂乃果は拓巳の家へ行く前に、帰りが遅くなりそうだから同僚の家に泊めてもらうと、母にメールを入れておいた。
 だからなにもビクビクすることはない。そう自分自身に言い聞かせるが、あまりうまくいかなかった。生まれてはじめて家族に嘘をついて、家族に言えないような夜を過ごした。しかもその相手は……。
 意を決して、穂乃果はそぉっとドアを開ける。
 もちろん朝帰りなんて、はじめての経験だ。
 果たしてドアを開けた先に、可奈子が一番いてほしくない人物が、腕を組んで立っていた。

「遅いっ! 何回電話したと思ってるんだ!」

 兄の二ノ宮和馬(かずま)は青筋を立てて、穂乃果を睨んでいる。彼の両脇には両親もいた。

「ちゃ、ちゃんとメールしたじゃない。電話なんて、電車の中じゃ出られないよ」

 穂乃果は即座に反論するが、バクバクする心臓に気付かれないようにするのに必死だった。

「いったい誰の家に泊まったんだ!」

 和馬はジロリと穂乃果を睨んで、穂乃果が獅子王不動産に就職してから何十回と言われ続けているお決まりの言葉を口にした。

「まさか獅子王の社員となにかあったんじゃないだろうな!」

「獅子王の社員って……お兄ちゃん、そもそも私だって獅子王不動産の社員なのよ」

 穂乃果はため息をつく。
 まさにこれが、拓巳との付き合いに踏み切れなかった理由だった。
 穂乃果の家は二ノ宮不動産販売という、業界では中堅どころの会社を経営している。父は社長、兄は副社長、穂乃果は生粋の社長令嬢だ。
 向上心が強くまたやり手の兄は業界最大手の獅子王不動産を異常にライバル視していて『打倒獅子王』を信条としている。
 加えて、極度のシスコンだ。
 歳が八つ離れている穂乃果を、とにかく昔から溺愛していて、その行動に常に目を光らせていた。そして将来は二ノ宮不動産の社員の中から俺が認める結婚相手を見つけてやると口癖のように言っていた。
 大学を卒業した穂乃果が、就職先に獅子王不動産を選んだのはそんな兄への反抗心だったのかもしれない。
 もちろん兄は反対した。わざわざ他の会社に就職などしなくとも二ノ宮不動産で働けばいいじゃないかと。
 兄の言い分はもっともだ。
 本当ならそうするべきなのだろう。
 穂乃果だって、兄に負けず劣らず二ノ宮不動産が大好きなだから、祖父の代で立ち上げて父が大きくした会社を兄とともに支えていきたいと願っていた。
 でもどうしても一度は外へ出たかった。誰も穂乃果を社長令嬢とは知らない場所で自分の力を試したかったのだ。
 でもいずれは家業を手伝うなら、同じ業種の一流の会社で勉強したいと穂乃果は兄を説得し、獅子王不動産へ就職した。
「穂乃果、獅子王で働くのはいいが、絶対に男は作るなよ。獅子王の社員お前は渡さん」
 くどくどと言う兄の後ろで母が口を開いた。

「和馬ったら本当に口うるさいんだから。いったい誰に似たのかしら。穂乃果の心配よりも自分の心配をしてちょうだい。いつまでも妹にべったりじゃだれとも結婚できないわよ」

 隣の父は困り顔だ。
 兄が異常にうるさい分、両親は穏やかだった。でも獅子王がライバルであることには変わりはない。
 昨日の夜、穂乃果が誰と過ごしたのかを知ったら驚き、怒り、悲しむだろう。

「穂乃果、本当に同僚と一緒だったんだな? それは、女性の……」

 さらに続く、兄からの追求に穂乃果は思わず声をあげる。

「もうっ、お兄ちゃんには関係ないでしょ! 私もう部屋に行くから。絶対に来ないでよね」

 これ以上突っ込まれるのを避けたくて、穂乃果は一方的に会話を終わらせる。そして急いで二階の自分の部屋へ駆け込んだ。
 獅子王の社員でもあれほど毛嫌いしている兄なのだ。よりによって獅子王の御曹司と一夜を過ごしたことがバレたらいったいどうなってしまうのだろう。
 想像するのも恐ろし買った。
 とにかく、絶対に昨夜のことは知られないようにしなければ。
 昨夜のことは、なかったことにして……。
 でもそこまで考えて、穂乃果の胸がちくりと痛む。すべてなかったことにするには、昨日の出来事は、穂乃果にとってあまりにも衝撃的で大切な経験だった。
 拓巳は、穂乃果がはじめて本気で好きになった男性だ。
 地元では有名なお嬢様学校に通い、兄に厳しく見張られていたため、就職するまで穂乃果には男性の知り合いすらいなかった。
 獅子王不動産へ入社してからは、拓巳の下でただひたすら彼の背中を追いかけてきた。
 玉砕するはずだった初恋が奇跡的に実ったのだ。その人と、はじめての夜を過ごすことができたのに……。
 胸が痛くて、苦しかった。こんなことならば、せめて夜を過ごす前に先に言ってほしかった。そしたら間違っても、彼のマンションに行くことはなかったのに……。
 昨夜、拓巳はこれ以上ないくらい熱く優しく穂乃果を抱いた。耳に囁く甘い言葉も、強い力もまだ身体のあちこちに残っている。
 自分で自分を抱きしめて、穂乃果はぎゅっと目を閉じた。
< 3 / 24 >

この作品をシェア

pagetop