天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
秘書室
 穂乃果の荷物は後からマンション事業部の誰かに運ばせると言う部長に追い立てられて、穂乃果ははじめて獅子王不動産本社ビルの最上階に足を踏み入れた。
 常にガヤガヤと騒がしい階下とはうって変わって役員室が並ぶ廊下は静寂に包まれている。
 秘書室もこの階にあって、役員以外の社員がいないわけではないから、こんなにここが静かなのはきっと、それぞれの空間を仕切る壁やドアの造りが違うのだろう。
 そんなことを考えながら穂乃果は恐る恐る廊下を進む。秘書室はすぐに見つかった。
 よく耳を澄ませば向こう側からかすかに人の話す声が聞こえてくる。穂乃果はすぐには入らずに背筋を伸ばして深呼吸をひとつした。
 同じ獅子王不動産の社内だといっても、他の課に異動になるのと秘書室は少し意味合いが違うと穂乃果は思う。
 秘書室は他の課とはあまり接触がない秘密のベールに包まれている。どういう人たちが働いているのかも穂乃果はまったく知らなかった。
 そんな場所にいきなり異動になったのだ、ただドアを開けることにすら勇気がいる状態だった。
 とはいえいつまでもこうしているわけにはいかない。穂乃果は意を決してえいやとドアを開けた。
「失礼します!」
 中にいた十人ほどの男女が動きを止めて一斉にこちらに注目する。
 穂乃果はその場で頭を下げた。
「マンション事業部から本日付で配属になりました。二ノ宮穂乃果です。よろしくお願いします」
 そして顔を上げると、彼らは皆驚いたように、フリーズしている。
 その微妙な空気に、失敗したかな穂乃果は思う。
 勢いとスピードとはっきりとものを言う力が必要不可欠なマンション事業部と秘書室は部内の雰囲気が違うのだ。飛び込み営業みたいなやり方は、よくなかったのかもしれない。
「あ、あの……」
 気まずい思いで穂乃果がまた口を開こうとしたその時。
「ああ、君が二ノ宮さん! よかったよ!」
 一番向こうの席に座っていた四十がらみの男性が助かったというように立ち上がり、足早に穂乃果に歩み寄る。
「待ってたんだ。もう来てくれないのかと思ったよ!」
 少し遅れただけにしてはなにやら大げさにそう言って彼は心底安堵している。他の社員たちももよかったよかったと口々に言い合い、ホッとした笑みを浮かべてた。
「逃げられたのかと思ったよ」
 その言葉に、穂乃果は思わず眉をひそめる。ただの人事異動なのに逃げるだなんて穏やかじゃない。
 とっても嫌な予感がした。
 彼は自分を秘書室室長の成瀬だと名乗ってから、今回の人事異動についての裏事情を話しはじめる。果たしてその内容は穂乃果の予想通りだった。
「君には副社長を担当してもらおうと思ってね。副社長が今日着任されることは前々からわかっていたんだが、担当を誰にするかがなかなか決まらなくて」
 その言葉に、周りの社員が困ったように曖昧な笑みを浮かべている。
 新しい副社長の秘書は大人気のポジションだから手を挙げる社員がたくさんいてとてもひとりに決められなかった……というわけではなさそうだ。
「副社長が非常に厳しい方だというは全社員が知っていることだろう? もちろんその分成果をあげられているから、取締役になられたわけだが。その副社長の秘書が誰なら務まるか、人選が難航してね。それで君に白羽の矢が立ったというわけだ。なんと副社長直々のご指名だったんだよ」
 話し終えて成瀬は満足そうに穂乃果を見る。
 穂乃果は複雑な気分になった。
 確かに拓巳は厳しいが、部下に理不尽な要求をするような人物ではない。できる人にありがちな"自分にできることは、お前にもできるだろう"というような傲慢さもなかった。
 彼は常にそれぞれの部下の能力とキャパシティ、それから抱えている案件を把握していて、的確な指示を的確なタイミングで飛ばす。相談ごとも決してめんどくさがらずに聞いてくれる。
 だから部内ではとても慕われているのだが、他の部署となると違うようだ。
 実際に彼と仕事をすることがない社員の間では"とにかく厳しい"ということだけが広まってしまっているようだ。
 成瀬が穂乃果の肩をポンポンとした。
「君、社内中で評判だよ。あの副社長についていけるガッツのある子だって」
「あ、ありがとうございます」
 一方で裏事情は別にして、やはり自分が拓巳の秘書になるのだという事実に、穂乃果の背中をつーと冷たい汗が伝う。
 まずいことになってしまった。
 そもそも穂乃果は、拓巳が取締役に昇格したらもう彼とはお別れだと思ったから告白したのだ。その後の意外な展開には胸を痛めてはいるものの、顔を見る機会が激減すればいつかは忘れられかもしれないと思っていた。
 それなのに、まさかこれからも彼と一緒に働くことになるなんて。
 非常に、まずい状況だ。
「あ、あの室長。お、お話はよくわかりました。でも私まだマンション事業部の方の片付けが終わっていませんで……。挨拶がてら、下に荷物を取りに行ってもいいですか……?」
 一旦気持ちを落ち着ける必要がありそうだ。頭の中がパニックを起こしていて、とても拓巳に会える状態ではないと思い穂乃果はそう申し出る。
 突然の異動、新しい副社長、自分は秘書、もういつ彼と顔を合わせてもおかしくはない状況だ。心臓はバクバクだった。
 金曜日までの穂乃果ならこの人事を嬉しく思ったに違いない。大好きな人とこれからも一緒に働けるし、なにより彼が自分を秘書に指名してくれたというならば、今までの努力を認めてもらえたということなのだから。
 でも残念ながら今の穂乃果には、そう思うことはできなかった。とにかく一回持ち帰り、頭を整理しなければ。
「なにしろあちらのデスクがそのままでして、午前いっぱいくらい時間をいただきたく……」
 成瀬が慌てて首を振った。
「ダメダメ、それは後にしてほしいんだ、二ノ宮さん」
「え?」
「すでに副社長がお待ちなんだ。それに片付けは必要ないと思うよ。あちらの部長からさっき内線があって、荷物は持って来てくれると言っていたから。とにかく今すぐに、副社長室へ行ってほしい」
「ええ⁉︎」と穂乃果は声をあげる。
「い、今からですか⁉︎」
 いくらなんでも急すぎる。心の準備がまったくできていない。
「お願いだよ。副社長は時間を無駄にするのはお嫌いな方だって噂だから」
 それは穂乃果もよく知っている。彼が"待っている"というならば、今すぐに行くべきだ。
 でも……!
「副社長室は、ドアを出て右、奥から三番目の扉だから」
 追い立てられるように廊下に出て、右側に視線を送ると、件のドアはすぐに見つかる。階下にあるそれとはまったく違う重厚な木の扉が、威圧的な空気を放っていた。
< 5 / 24 >

この作品をシェア

pagetop