天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
秘書生活の始まりは
 ノックをすれば打てば響くように「どうぞ」という返事が返ってくる。恐る恐るドアを開けて中に入れば、拓巳は部屋の中にいた。
 獅子王不動産本社ビルの最上階から臨む絶景を背にして座っている。
 穂乃果を見つめる視線はいつになく険しかった。
「お、遅くなりまして、申し訳ありません」
 謝罪の言葉を口にして穂乃果は部屋の中を進み、飴色の大きな机を挟んで拓巳と対峙する。
 拓巳が口を開いた。
「君まさかな、マンション事業部の方へ出社していたのか」
「え? ……は、はい」
 少し不機嫌な問いかけに、穂乃果は素直に頷いた。
「……辞令は一週間前に降りていたはずなのに」
「え? 一週間も前に⁉︎ ……いえあの、あ、えーと、ちょっとうっかりしていまして」
 とっさに穂乃果はそう言い訳をする。後から考えたらべつに部長をかばう義理はなかったのだが。
 その穂乃果の回答に、拓巳が疑わしげに目を細める。おそらくは元部下の不手際など、お見通しなのだろう。
 でもすぐに「まぁ、いい」と言ってため息をついた。
「いくらなんでももう話は聞いたとおもうが、今日から君には俺の秘書を務めてもらう。明日からはちゃんとこっちに出社するように。やることはそう大きくは変わらない。俺の業務のサポートだ。ただ俺の業務自体が少し変わるからそういう意味では……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 今後のことについて、どんどん話を進めていこうとする拓巳に、穂乃果は思わずストップをかける。まったく頭がついていけていない。
「ほ、本当、私が……?」
「そうだ。同じことを二度聞くな。俺のサポートは君にしかできない」
 そう言って拓巳はジロリと穂乃果を睨んだ。
「え? あ、ありがとうございます。で、でも……」
 言いかけて、穂乃果は次の言葉を見つけられない。今までの頑張りが認められて副社長付きの抜擢された。それなのに素直に喜ぶことができないのは、紛れもなく週末に起こったあの出来事のせいなのだ。
 でもそれを今ここで口にするわけにはいかなかった。
「えーと、その」
 モゴモゴ言う穂乃果に、拓巳が釘を刺す。
「言っとくが、俺は君を好きだから秘書にしたわけじゃない。俺の業務に君が必要だと思ったからだ」
 穂乃果の方は具体的なことを口にするのは避けたというのに、平気で"好きだ"などという言葉を口にする拓巳に穂乃果は目を剥いて絶句する。脳裏に週末の夜の出来事が蘇った。
 彼は、穂乃果の耳に口づけて、何度も好きだと囁いた。
 穂乃果の頬がこれ以上ないくらいに熱くなった。
「とにかく」
 拓巳が立ち上がり、机を回り込んで穂乃果の方へやってくる。そして穂乃果をじっと見つめた。
「仕事は仕事だ。俺たちの間にあったことは関係ない。君が会社にいる限りはきっちりとやってもらう。この異動は会社の正式決定だから、今さらもう覆らない」
「……はい、わかりました」
 至極真っ当な彼の言葉に、穂乃果は頷いてうつむいた。
 なんて気まずい状況なのだろう。たった一晩のことだけれど、紛れもなくふたりは恋人同士だった。だとすれば、いわゆる元カレというやつだ。その彼とこれからもずっと一緒に働くだなんて。
 こういう状況を避けるために最後の最後の日を選んで穂乃果は告白をしたのだ。それなのに、すべてが無駄になったような気分だった。
 あれこれ考える穂乃果の、まだ熱いままの頬を不意に大きな手が包む。驚いて顔を上げると、厳しさの中に優しい色を浮かべた拓巳の眼差しがあった。
「……身体は、大丈夫なのか」
「っ……!」
 その言葉が週末の夜の出来事を受けての言葉だと気が付いて、穂乃果は息が止まりそうになる。目を開いてただこくこくと頷いた。
「ならよかった」
 拓巳が安堵したように息を吐く。
 穂乃果の胸が締め付けられた。
 彼はいつもこうやってまず相手のことを思いやる。だからこそ穂乃果は彼を好きになったのだ。
 あのまま恋人でいられたら、どんなに幸せだっただろう。
「言いたいことは山ほどあるが、まずは仕事に集中しよう」
 そして机に戻りタブレットを起動させながら、彼はさっきの続きを話しはじめた。
「さっきも言ったが、君の仕事は俺の業務のサポートだ。俺の業務内容は今までと大きく変わるわけじゃないが、用地の買収が大きなウェイトを占めることになる」
 テキパキと話を進める拓巳の言葉を穂乃果は頭に留めていく。一生懸命に気持ちを切り替えた。
 彼の言う通り、ふたりの間にあったことは仕事には関係ない。
「とにかくどこよりも早く情報をキャッチすることが、今後の展開の鍵になる。そのためには今まで以上に人脈を広げておきたいんだ」
「わかりました。では今まで交流があった方々に副社長就任のご挨拶のアポイントを取ります」
 彼の言葉の意図を汲んで、そう言うと彼は嬉しそうににやりと笑う。
「助かるよ」
 その他いくつかの指示を出して、最後に思い出したように机の脇に避けてあったクリアファイルを差し出した。
「それから、後でこれにサインをしておいてくれ」
 機密情報についての誓約書だった。
「形だけだ。秘書室へ配属になった社員は皆書く決まりになっている。一応役員付きになるわけだから」
 そのファイルを受け取りながら穂乃果の頭に嫌な考えが浮かんでいた。
 拓巳は自分が御曹司であることを隠したまま、穂乃果と出会い恋に落ちた。もし彼の正体を穂乃果があらかじめ知っていたら結果は違ってもいだろう。穂乃果は彼を好きにならないように努めたし、たとえ好きになってしまったとしても告白などしなかった。
 告白前は無理だとしてもせめて関係をもつ前に"言ってくれればよかったのに"という思いが穂乃果の中にあるのも事実だった。
 でももしかしたら、その逆もありえるのではないだろうか。
 穂乃果は二ノ宮不動産の社長令嬢であることを隠して、獅子王不動産で働いていた。
 社員の中に家業が同じだという社員はべつに珍しくはない。だからわざわざ言わなかっただけなのだが、役員秘書となると話が別なのではないだろうか。
 いや考えでみれば今までも拓巳は社内で重要な役割を担っていて、すぐそばにいた穂乃果はすでに家族には言えない情報を数えきれないくらい知っている。
 もちろんそれを漏らすようなことは一度たりともしたことはないが、それでも拓巳が穂乃果を二ノ宮不動産の娘だと知ったら裏切られたと感じてもおかしくはない。
 今さら気が付いた事実に、穂乃果は愕然とする。
 拓巳が御曹司だということを黙っていた、だからふたりはダメになったのだと今の今まで思っていた。でも実際はその逆だったのだ。
 穂乃果がライバル企業の関係者だと拓巳が知っていたら、彼は自分をそばに置かなかった。そしてその穂乃果の告白に応えることもなかっただろう。
 すべては穂乃果のせいだったのだ。
「今日は午後からこのリストにある先を回る。午前中は……、二ノ宮? 二ノ宮? ……本当に大丈夫なのか?」
 拓巳が眉を寄せて穂乃果を見ている。
 胸の中に不安が広がっていくのを感じながら、穂乃果は「大丈夫です」と答えた。
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