恋におちたとき
 なにをしていたのかな? と疑問に思うけれど、もちろん答えが出るわけも無い。私は気が付けばさっきよりも真剣に、彼の後姿を見つめていた。冷静になろうって、数秒前に決めたはずなのに。
 でも冷静でなくなっているのは、多分焦りがあるせい。私の勤務先まで、あともう少しと近づいていた。
 ───そして彼とはそこで別れてしまう。

 二カ所目の信号を渡ったのをきっかけに、視線を斜め左に向ける。あと数十メートルしたら、私はあそこにそびえるビルの一つに入ってゆく。

 うん。まあでもね。
 カバンの謎は残したままだったけれど、彼のおかげで憂鬱な出勤が充実したものに変わっていった。

 またいつか会えるといいなと思い、最後にもう一度凝視する。まるでそれに応えるように、彼がふと横を向いた。

 ふわふわの髪の毛、茶色い縁の眼鏡。そして口からはみ出ている、あれは白い、棒?
 なんだか良く分からなくて、目を大きく見開いて見つめてしまった。タバコなんかよりももっと細い、あれは、……棒付きキャンディーだ!

 雨が降ってきたのを知って、思い出したようにカバンをあさって、そして取り出したのは棒付きキャンディー。

「雨と飴。って、こと?」

 無意識のうちにつぶやいて、すぐにはっとして恥ずかしさからうつむいた。

 雨が降ってきたから傘をさす。ではなくて、雨で飴がカバンにあったことを思い出し、食べてしまう。
 確かにそのほうが、あのマイペースな歩き方をする彼にはよっぽどふさわしい。

 いやでもそもそもなんで、カバンにそんなものあるの?
 いい年した社会人男性が朝から棒付きキャンディー舐めて出勤って、果たしてどうなの?

 いっぱい突っ込みたいことがあって、思わず笑いそうになって、……でも笑うことが出来なかった。
 ダメだ。このセンス、別の意味でツボすぎる。
 心臓がどきどきと早くなっていた。それどころか、彼の姿に心臓がきゅっと縮むような衝動が起こっている。

 どうしよう。私、あの人のこと好きになってしまった。

 まだ後姿と横顔しか見ていないのに、声も聞いていないのに、どんな人だかなにも分かっていないのに、この瞬間、恋におちてしまった。

 これが私の運命のとき。
 人はこんなにも簡単にたやすく恋におちてしまうものなんだって、身をもって知った朝。


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