青時雨
 
 軽く目眩(めまい)を覚えて、目を閉じた。
 目を閉じながら、マリーナで一夜を過ごした翌日の、朝の光景を思い出していた。

「恋人と、別れてきたんです」

 私は悠介さんの胸板に顔を乗せたまま、囁いた。

「4年付き合って、結婚を考えていた相手でした」

「──なぜ、別れることになったのですか?」

 悠介さんは静かな声で、聞き返してくれた。

「彼の浮気です。相手は、彼の会社の後輩でした」

「どこかそんな、気がしていました」

 彼が緩やかに息を吐くと、厚い胸板がゆっくりと上下した。

「桟橋を歩くあなたを初めて見たとき、あなたの姿は朝日に溶けて消えてしまいそうなほど、儚かった。まるで蜃気楼のように」

「……」

「それで声をかけたんです。あなたが、消えてしまわないように」

 私は少し身体を起こして、彼の瞳を見詰めた。

「──ありがとうございます、声をかけてくださって」

 彼は夜が更けるまで、狂しく私を愛してくれた。

 理屈ではないのだろう。
 私は、恋人の浮気によって「女」としての自分を、無惨に否定された。
 きっと私は誰かの手によって、穴が空いた否定の痕跡を、埋めてもらわなければならなかったのだ。
 
 彼は猛々しく、優しく、私の身体を愛し続けて、私が気を失ってもなお、私の身体に性愛の(わざ)を刻み付け続けた。

 私は、満たされた。
 夜更けまで愛され続けた私の身体は、消耗しきって鉛のように重かったけど、どこかやすらぎを感じさせる重さだった。

 ふいに、悠介さんが言った。

「僕は、あなたの止まり木になれましたか?」

 私は答える代わりに、悠介さんにそっと口付けした。 
 
「素敵な夢を見せてくださって、ありがとうございます。あなたに抱かれて、よかったと思います」

 この人はきっと蜘蛛のように網を張り、ここを訪れる蝶のような娘たちを、次々に絡め取って捕食しているのだろう。

 今回、たまたま網にかかったのが私だったというだけのこと。

 それだけのこと。

 私たちはもう一度口付けを交わすと、交代でシャワーを浴び、バタートーストとコーヒーの朝食を取った。

 そして私は、彼に見送られながら、ヨットを降りた。
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