眠りにつくまで






「三鷹くん、知り合いだったのかい?」
「いえ…お名前もわからずすみません。教授もご存知の倉田さんの墓参りに先週行った際に声を掛けられた方です」
「三鷹くんは有名人になったからね」
「たまに見ず知らずの方に名前を呼ばれて…会ったことがあるか必死に思い出そうとする無駄な努力をすることがあります」
「僕たちもよくあるよ。学生は私たちの顔と名前を覚えていても僕たちから学生を一人一人覚えていないからね」
「おっしゃる通りです。学生の書く文章で覚えていたりすることはありませんか?」
「ありますね」
「教授たちは相手が学生とわかっているだけで恐怖は感じないでしょう?私の場合、夜の街で呼び止められたりするんですよ。日本国外でも声を掛けられたことがありますし」
「それは怖いね」

俺たち3人は誰からともなくピアニストに会釈して話し続ける。すると彼女も話を邪魔することなく会釈し3人それぞれの前に名刺を置いて行った。

「三鷹くん、誘われたのかい?」
「いえ、全く」
「彼女、他の席でも挨拶はしていたようだけど…有名人は大変だね」
「しかも金持った美男子ときた。いろいろと気をつけてな。君に限って利用されるようなへまはしないと思うが」

俺は親より年上の二人の忠告を聞きながら、黒いワンピースの‘H’を思い出していた。
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