策略家がメロメロ甘々にしたのは強引クールなイケメン獣医師
 隣では卯波先生が寄り添っているのが見えた。

 オーナーは、ただ黙って隣にいてくれることが、こんなにも安心するんだって実感していると思う。

 オーナーが受付で事務手続きをして、通用口から帰って行くまで、卯波先生は見送っていたみたい。

 隔離室に戻って来た、卯波先生と目と目が合ったら、ガラス越しに私に向かって手招きをしている。

 珍しく、顎で来いじゃない。おいでおいでってパターンもできるじゃん。

「坂さん、隔離室で卯波先生のお手伝いをしてきます」
「いってらっしゃい」
 薬棚の前から、小走りで隔離室に向かう。

 一歩、隔離室に足を踏み入れた瞬間に大きく息を飲み込んだ。

 レクの最期の数日間の慌ただしさが嘘みたいに、沈黙の中にじっと身を沈めるように静まり返る。

 しょっちゅう鳴り響いていた輸液ポンプの音が、耳に残って常にレクに呼ばれている感覚が、今はもうなくて違う場所に来たみたい。

 それは寂しくもあった。もうレクからは、呼ばれない現実を突きつけられたと思ったから。

 もうレクはいないんだ。

 医療機器ひとつからも、レクの死を強烈に思い知らされるなんて思ってもみなかった。

 レクが入っていたケージを、吸い込まれるようにしばらく眺めてから視線を移すと、卯波先生と目と目が合った。

 思わず立ちすくんでしまい哀しみの余韻に浸っていた私を、黙って見守ってくれていたみたい。

「お疲れ様です」
「お疲れ、徹底的に消毒するから手伝って」

 二人でマスクとオペ用手袋を着用して、床やケージを拭き始めた。

「ケージ内のものは、すべて破棄するから、この袋に入れて」
 レクとの思い出の数々が、一つひとつ消えていく。

 でも感傷的な気分に浸る暇はない、すぐに処分して外来に戻らないと。

 無心になって拭いていたけれど、やっぱりレクのことが気にかかって、頭をよぎる。

「レク、最期まで頑張って生きましたよね?」
 片付けながら、自分に言い聞かせるように卯波先生に質問する。

「ああ、レクは必死に生き抜いた。長引く苦痛から、これでようやく解放された」

「レクは幸せでしたよね?」
 楽になれたんだ、レクよかったんだね。

 欲しい言葉をくれる卯波先生だから、心の整理のために何度も質問する。

「愛情をたっぷりに注がれたレクは、とても幸せだった」
 病気の子の安楽死を目の当たりにして、重くなった心が痛む。

「レクは幸せだったって。心配いらない、顔を上げろ」
 少し声のトーンが上がった声に驚いて見つめた。

 そんな私のしぐさにも動じず、卯波先生は無心に消毒をしている。

「レクは俺たちに“ありがとう”って」
 性格がにじみ出ているんでしょ。

 初めて見た優しい笑顔が、私の心を安心させてくれる。本当の性格が笑顔に表れているんでしょ。

 レク、ありがとうって言って旅立ったんだね。心の中でぽつりと呟く。

「ああ、そうだ、ありがとうって」

 重い心が少しずつ軽くなって、少しだけ頬が柔らかくなれた。レクの力になれたんだ。

「私は今、ありがとうって言いましたか?」
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