ぼくらは薔薇を愛でる

 隣に座るクラレットが握り拳を作ったのを見たオーキッドが口を開いた。
「この子の苦痛となる事は、何一つ味あわせたくないのです。ですから、それは――」
 ここへ来る馬車の中の会話を思い出した。痛い事をするのか、と聞いてきた娘に、しないと答えた。腕の切開の時も痛みを我慢させた。命に関わるような痣ではない。顔の目立つところにあるものでもない。衣服で隠せるし、痣があろうが、クラレットを望んでくれる方は必ず居る。ならば痛い思いをさせなくてもいいのではないか。

「ふむ、わかった。だが、そういう方法もあるという事は覚えておいておくれ、必要になった時はいつでも相談に来なさい。対応はできるから。――ところで、お嬢様」
 医師は二人の意思を尊重してくれた。
 大人になれば、夫となった者は痣を目にする時がくる。そうした時がくる前に処置を、と無理に勧められたらどうしようと思ったが、こちらの意思を尊重してくれた。そうして医師は続けてクラレットに声をかけた。

「お前さんのその痣は、とても稀有なものだ。強い陽の光を浴びたり体温が上がれば多少は色が濃くなるかもしれない。痣は他の場所よりも敏感だから、体温が高くなれば痒く感じたりする事があるかもしれない。けれどそれは一時的なものだから怖がらなくていい。日の強い季節は、日除けを心がけなさい。長袖を着るか、どうしても長袖が無理なら日傘を使うといい。今はまだそうでもないが、じきに強い日差しの季節が来るからね。それから――そうだな、ビタミンをたっぷり摂りなさい。先生のおすすめは、ここを出て右に行ったところにあるフルーツジュースバーのオレンジだよ、大好きなんだ、一番美味い。それからこれは内緒だがね、ビタミンには美肌効果がある」
 そう言ってウインクをしてみせた。
 白髪のおじいちゃんが美肌効果を気にするなんて、と思ったら少し可笑しくて、クスッと笑いを漏らしたクラレットの頬を指の背で撫でた。

「それと、少しお父上と話があるから、待合室で待っていてくれるかい?」
 クラレットを待合室へ促して、診察室の扉を閉めれば、医師は先ほどとは違う緊迫感のある声で話し始めた。

「先般、国から『10歳前後の"痣"を持つ令嬢がいたら報告を』という通達が、産院や我々医師に対して秘密裏にあった」
 秘密裏――? オーキッドはドキリとした。

「なぜ、ですか」
 ギッと丸椅子を鳴らしてオーキッドが前のめりになる。

「わからん。だが報告をすれば、その令嬢の動向は国に把握される。10歳前後というから、ひょっとしたら王子の妃候補なのかもしれん。もしそうだとしても痣を持っているという条件付きである理由が分からない。通達は、ローシェンナ国内に限らず、とも書いてあった。だから他国の者でも構わないという事だ。我々はこうして他国の患者の診察もする。痣を持った娘さんを診察した事もある」
 医師はかけていたメガネを外して机に置くと、椅子に背中を押しつけて大きく息を吐いた。

「では……娘の事も報告を?」
 不安に揺れるオーキッドの視線を受けて、医師はニヤリと口の端をわずかに上げた。

「――私は見ての通り年寄りだ。国からの通達とはいっても強制力は無いし、うっかり忘れることもある、ホッホッホ」
 そんなに年寄りには見えないが、都合が悪くなると年寄りになれるらしい医師の笑いに、オーキッドも引き攣った頬を緩めた。そうして深々と頭を下げた。

 診察室を出て、待合室に居るであろう娘の姿を捜したが見当たらなかった。会計を済ませて待合室を見回せば、玄関前の花壇にしゃがんでいる背中があった。ほぼ同じくして娘も父の気配を察して振り向いて、駆け寄ってくる娘の(いとけな)い笑みをみて、オーキッドは泣きたくなるくらいに娘を愛しく思った。

『ローシェンナは痣に関しては寛容だ。その理由を知っているか? 古い時代の王妃が痣を持っていたのだ。レナード王は今でこそ賢帝として語り継がれているが、それは王妃のおかげだとも記録が残る。痣がある事で迫害されていた王妃は、王と出会った事で彼に正しき道を示し、王は王妃に居場所を与えた。己の隣という居場所を。それがあって、痣を持つ者を蔑ろにする者はこの国には居ない。だが……なるべくあの子の痣は他人に見られない方がいい。万が一この秘密裏の通達を知る者に見られでもしたら――その先はわからん。拐かされる事はないだろうが、強引に城へ連れて行かれるか、登城せよとの王命が下る事も考えられる』

 先ほどの医師の言葉が頭から離れない。

 ――訳のわからない通達で連れて行かれてたまるか。この笑顔を守る。

 オーキッドは強く誓った。
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