ロゼに溺れた熱帯魚
あの日
 車は混雑する那覇を抜け、高速道路に乗り、リゾート地を目指す。高速道路の両脇に植えられた南国らしい樹木、真冬だと言うのに鮮やかに咲き誇るハイビスカス。流れてくる哲の好きな曲。このなんとも和む景色が哲を彷彿とさせるのか、運転しながら止めどなく思い出が脳内を流れていく。

 *
 ある日、バイクを買ったと写真が送られてきた。KAWASAKIグリーンだと言っていたが、萌奈には何だかわからなかった。素直にそれを伝えると、直ぐに説明してくれる。萌奈はそれまでバイクとひとくくりにしていた物にKAWASAKIのバイクと言う言葉が加わった。
 一度しか会っていない哲のイメージはスーツ姿だったのだが、そうやって少しずつ実際には会っても居ないのに色んな姿が追加されていった。

 挨拶だけ辛うじてする夫より、哲の事に詳しくなり、好みや体調まで知るようになる。
 週の半分を出張先で過ごす哲の話は楽しかった。
 今日は仙台の牛タンを食べたよ。旨いんだよ、仙台のは。明後日は高知かな? 鰹の叩きを塩で食べられるんだ。
 そんな話をしながら哲はうつらうつら。接待で酒を飲むことが多いので、電話をしながら寝てしまう哲。耳もとで規則正しいスゥスゥと言う寝息。
 「寝てるよ。ねぇ、電話切っていいよ?」
 笑いを堪えてそっと囁くと「ん? 寝てないって」と寝ぼけたかすれ声が返ってくる。
 「疲れているんでしょ? 寝たらいいよ。お仕事お疲れ様」
 「いや、寝てないって……」
 反論も最後は力を失って、またスゥスゥと寝息。
 萌奈は表情を溶かしてゆっくり微笑み言う。
「おやすみなさい。ゆっくり休んでね」
 答えは寝息のまま、そっと通話を終わらせる。

 どんなに眠くても電話をしてくる哲を好きにならない理由はあるだろうか。常に穏やかで、何時だってどんな会話だって楽しいのだから、恋に移行しない方が不思議だと言っても過言ではない。
 事実、知り合ってから一年半ほど経ったある日、萌奈は気持ちを抑えきれず聞いてしまった。

「あの哲さん、会えないかな」
 久しぶりの東京出張の話を聞いて、思わず口走っていた。口にしてから、ドキドキと心臓が驚いて鼓動のピッチを上げる。
 珍しく哲が言葉に詰まっているのを感じ、萌奈は変な汗が噴き出してきた。
 間違えた。これは口にしてはいけなかった……。瞬時に後悔する。
 自分の体に添うように下がっていた左手に視線が向かう。今日も"魔除け"のリングがあった。
 「……結婚してるのは萌奈さんの方でしょ」
 沈黙の後の哲の声はいつもより低かった。
「もう、夫婦と言っても名ばかりで……」
「でも、結婚してる。……東京には行くけど、あんまり時間がなくて」
 哲は直接的な言葉を言わずに断ろうとしていた。それがわからないほど鈍感ではなかった。でも、わからないくらい鈍感になりたかった。
 日々の電話はまるで恋人同士。でも、電話と言う媒体を通さないと会えないのだと知らしめられた瞬間だった。

 じゃあ何故毎日電話をしてくれるの?
 どうして話したいなんて言うの?

 それがわからないほど子供でもないのが、苦しかった。切ないのは相手の気持ちが透けて見えていること。会えない原因が自分にあることがとてつもなく悲しかった。

 離婚は夫の頑なな拒否により、不可能だった。世間体を気にして別れたくないの一点張り、話し合いにもならないのだから、後は裁判をする他ない。それはそれで途方もない労力を要することがわかっていた。離婚しなければ、不毛な話し合い、山ほどある書類の束との格闘を避けられる。何より、これまた世間体を気にして離婚に反対している両親を悲しませずに済んだ。家庭内別居は思いの外上手くいっていたことも、離婚しない理由になっていた。ただの同居人となった夫は、同居人としては申し分なかった。自分のことは自分でこなし、互いに不干渉。嫁の肩書きが付いたままの女が、同じ屋根の下で他の男と話そうと、何も言わなかった。相手に期待しないと言う事がこれほど夫を他人にさせるとは。顔も名前も知っている、ただそれだけの関係。

 哲は相変わらずハッキリと会うべきではないとは言わなかった。でも哲にしては珍しく分かりやすい濁し方だったとも言える。
 緊張を保ったまま、暫くいつものような会話を交わして切れた電話。握りしめたスマホから顔を離すと、画面は少しだけ汗ばんでいた。

 会いたい。いつ、会おうか。そんな流れにはこの先もなることはないと知った夜だった。なかなか寝付かれず、油断すると涙が浮かんで驚く。こんなにも好きだったのか、と。
 体にゆっくりと染み込んで浸透した甘いカクテルに似ている。気がついたら取り返しのつかないところまで酔いは進んでいた。酩酊後の虚無感が、萌奈の頭を酷く痛め付ける。あんなに心地よく火照った体に冷や水をかけられた出来事だった。

 それから半年後、萌奈は電話をする前にあらかじめメッセージでリクエストを出した。
『今日はテレビでパイレーツカリビアがやるの。一緒に見よう』
『ああ、いいよ』
『うん、最後だから思い出になるようなことをしたくて』

 "最後"なんて思いきった文字を送ったがそれへの返答はなく、映画が始まる頃、いつもの呼び鈴がなる。何事もなかったように二人でイヤフォンマイクを装着し、同時刻に同じ映画をみた。
 隣同士、肌が触れあう距離で見れば、恋人同士。しかし、二人は何十キロも離れた場所にいた。この関係には名前がない。友人と言うには密すぎて、けれど恋人同士では決してない。想い合っていても、恋人にはなれないのだ。

 二時間なんて本当にあっという間で……、息苦しさを感じながら一度口を閉じて、唾を飲み込んだ。エンディングが流れる画面を見つめたまま、萌奈が口を開く。

「もう、今日で電話は終わりにする」
「そうか……」
「そろそろ寝なきゃね、明日仕事だし」
「だなぁ」

 こんな時でも穏やかな返事。何故なんて聞かない。あやふやな関係、あやふやな理由。

「でも、まだ眠りたくない」
「うん」

 寝なさいとも、もっと話していようとも言わないのが哲。でも、萌奈が電話を切ると言うまで、絶対に哲からは電話を終わらせることはない。突き放すことなどしない人。
 萌奈は半年前に外した指輪の跡を親指で確認するようになぞる。日焼けをしているなんて、想定外だった。外しても未だに残る結婚の証。事実は変わらないと言わんばかりにうっすらとリング型に色が抜けた肌。

 その後少しだけ会話を交わして、電話を切った。最後の会話はなんだっただろうか。押し迫るカーテンに焦る舞台人のように、とにかく場を繋いで終わった記憶しかない。
 サヨナラは言わなかった。
 二人とも言わなかった。
 おやすみなさいが最後だったはず。いつものように、おやすみなさいと挨拶を交わして、また明日とは言えなかったあの日。

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