ロゼに溺れた熱帯魚
アレルギー
 このフレンチの鉄板焼店はホテルの中でも高級店だった。家族連れには敷居が高く、格式ある風情から言っても大人以外はお呼びではない。明らかにドレスコードがある店だ。
 よって厳かなBGMの中、控え目なウエイターによって席に案内された時、見渡した店内はパラパラと空きテーブルが見てとれた。微笑ましい喧騒から切り取られた静かな空間。
 一段高くなった場所に角ばった楕円形の鉄板があり、客は外側、シェフ帽を被った調理人たちは内側に居る。客一組に対して調理人一人がつく。店内は鉄板で焼かれるステーキや海鮮などの匂いが漂っているのに、それもまた控え目。

 ウエイターが椅子を二つ引き、萌奈が座るタイミングで椅子を押してくれた。哲は持っていたカーディガンを羽織る。ジャケットではないが、カジュアルさが抑えられた格好になった。渡されたアルコールドリンク表に目を通して、哲が何かドリンクを注文している間に鉄板の向こうにいるシェフが萌奈に温かいおしぼりを渡してくれた。
 料理はどうすると哲が問う。軽めにと萌奈が答えると「沖縄はアグー豚ですよね? それと、海鮮を適当に。あ、甲殻類はダメです。彼女アレルギーなんですよ」とシェフに注文する。

 シェフは返事をすると、近くに居たウエイターに何やら指示をだす。それから屈みこんで鉄板の下にある扉を開け、皿やら食材を取り出した。屈んでも背の高い帽子が風に揺らぐ草原の草のように揺れていた。

「甲殻類アレルギーなの、よく覚えていたね」
 萌奈が感心して言えば「そりゃ、大事なことだから」と返す。
 そうかもしれないが、二人で食事をしたのはあのラーメンを食べた時だけなのだ。食べ物の話は電話でしていたが、アレルギーの話をしたかどうか萌奈には正直記憶にない。哲が知っているのだから、話したのだろうが……。
「なんだかんだ、色々覚えてる。アレルギーも、このホテルが好きだって話も、沖縄に来たらここ以外泊まらないって話しも」
 哲はおしぼりでのんびり指の股を拭きながら「我ながらストーカーみたいな気もしなくはない」と、口の端を上げる。
 萌奈も口角を緩やかに上げるが眉尻を同時に困ったように下げていた。
「偶然じゃないってことでしょ? でも、なんで? 私が会いたいって言った時は……」
 そこで萌奈が口を閉ざす。ウエイターがワインを左手にグラスを二個右手に下げて向かってきたのがわかったのだ。

 シェフの元に、皿に飾られたベビーリーフが届けられ、黙って捌いていたハマチの切り身が乗せられる。香辛料とオリーブオイル、最後に高い位置から荒く削られたピンク色の岩塩がかけられ、二人の前に出された。ハマチのカルパッチョ。ラディッシュの赤。きっとこれもレッドクリスマスの演出だ。
 ウエイターはグラスを一旦テーブルに置き、ワインのラベルを二人に見せてからトクトクと細長いシャンパングラスにそれを注いだ。ワインはロゼでしかも発泡しており、注がれた瞬間からくるくると弧を描きながら泡を上げていく。
「アレルギーの事は覚えていても、ワインの好みまではわからなかったから」
 ウエイターに注いでもらった細長いグラスを眺めながら哲は言う。
「赤か白か、決めかねたから、ロゼ?」
 哲らしいチョイスにちょっとだけクスッとさせられる。好みを聞かずに間をとるなんて、本当に哲らしい。

 ジュッとシェフが音を立てながら目の前の鉄板でホタテと共に、じゃがいもや人参と言った添え物を焼き始めた。ホタテが泡をぷくぷくさせるたび、フワリとバターの香りが漂っていく。
 二人のグラスにスパークリングロゼが注がれたら、互いにグラスを持って小さく掲げる。
「再会に」
 哲が言ったので意地悪く「あなたは会わないと言ったのにね」と萌奈が返した。哲は笑いを含んだ眼差しで萌奈を見つめたままグラスを傾ける。それからのんびりした動作で鮮やかな赤の液体を口に含む。喉仏が流れてきたロゼで揺れた後、グラスから口を離した。

「俺、結婚したんだ」
 哲はおもむろに切り出す。萌奈の視線はつい哲の左手に向かうが、哲の指に光るものはついていない。
「知ってる」
 萌奈が短く答えると「だよな」と哲。
「案外、噂って耳に入ってくるし」
「今井さんから聞いたの。哲さんの結婚式に呼ばれたって」
「ああ、今井さんか。俺ん所には相変わらず南野さんは綺麗だって情報が。今回のコンペで会えないって前園さんが悔しがってたよ」
「前園さん? リップサービスありがとうって言わなきゃ。今回のコンペに出るって知ってるなら、ここに来ることもお見通しだったって訳か」
 やや緊張を要する話題なのに、軽妙なやり取り。シェフの鉄板を叩くリズムのように、軽やかで心地よい流れ。新たに出された皿にホタテが乗せられ提供される。

「遅れたけど……ご結婚おめでとうございます」
「ああ、どうも」
「順調?」
「まぁ、普通だよ」
 そう。萌奈は湯気が上がるホタテを、ナイフとフォークで半分に割る。ホタテの中心から湯気が飛び出して、宙に昇っていく。

「お子さんは?」
「出来ないんだ。そして既にレス」
「すればいいじゃない。しなきゃ、出来るわけない」
 ちょっと投げやりに言ってしまって、口の中へホタテを放り込む。柔らかいホタテは噛むと独特の磯の香りが鼻を抜けていく。噛んでいれば、胸の中に嫉妬は隠しておける。
 哲もホタテを切り分けるとナイフを置いて、ホタテをつまみにロゼを飲み進める。

「最近、どういう訳か萌奈さんに会いたくなって」
 萌奈がホタテの最後の欠片を口にいれてしまうと、ゆっくり噛んで飲み込んだ。それからロゼをごくごくと飲み干していく。赤ほど渋くなく、白ほどフルーティーではない、程よい酸味に最後は苦味。
「どうしてかなって考えたんだけど」
 哲は傍らにあったロゼのボトルを萌奈のグラスに傾ける。グラス半分ほどになったロゼが小さな気泡を飛ばす。
「俺が結婚したからなんだと思う」
 哲の言葉に萌奈が顔を傾げながら哲を見ると、哲は笑いを含んだ表情で自分のグラスにロゼを注いでいた。
「前は萌奈さんだけ既婚者だった。そうすると、俺だけ穢れる気がして……って言うと凄いヒドイ奴みたいだけど」
「穢れる? 二人とも結婚していると違うの? 変わらなくない?」
「違うかどうかじゃなくて、二人とも同罪になるからさ。立ち位置も一緒。罪も同じ。片方が穢れることもなくなる。勝手な考え方だけど」
 萌奈が一旦口を閉ざすと、哲はロゼを煽った。釣られるように萌奈もグラスを傾け、冷たい液体を口に含み、アルコールを目の奥で感じて飲み込んだ。
「何かあった時は、今の方が泥沼だと思うけど」
「それでも、二人の罪はフィフティ・フィフティ。そう考えたら、会いたくなった。ズルいのはわかってる」
 喉を過ぎたはずのロゼが再び目の前をクラクラと揺らした。
「珍しくハッキリと言うんだね」
 萌奈が率直に口にすると「萌奈さんのやり方が移ったんだね、きっと」と、哲が返す。

 *
 確か、あまり鼻唄を歌わない萌奈が、珍しく酔っていて鼻唄を歌った事があった。
 嫌な上司が転勤になって、それでやたらと上機嫌になり飲みすぎたのだ。そんな日でも二人は通話をしていた。
 曲はその時流行りのロックだったはず。スーツを脱ぎ捨てながら鼻唄を口ずさみ、通話中の哲に「ご機嫌だね」と笑われた。それから哲も萌奈が歌っている曲を歌い出す。
 「ああ! 私が気持ちよく歌ってるのにー」
 「人は好きな相手の真似をしたくなるんだとか。目の前で顔を掻けば、顔を掻く。鼻唄を歌っているのを聞けば思わず自分も口ずさんだり」
 「それって、哲さんが私を好きってこと?」
 「さぁ、それはどうだか?」
 はぐらかしてまた歌い出す哲。あなたも好きなの? 私を。聞きたくなるのを、まぁ良いかと突っ込まなかった。のらりくらりの哲のこと、聞いたところで欲しい答えは返ってこないことを萌奈は知っていた。

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