さよならと誓いのキス
番外編 柴 視点
 あれは、ある意味、2人だけの誓いのキスだった。決して忘れる事のない、とても大事な想い。柴は、左手のひらを時折見つめて、あの日に想いを馳せる。

*  *  *

 彼女を初めて見たのは、まだ寒い時期だった。掃除用の手袋をしていても寒いだろうに、同僚の方と時折笑顔を見せながら作業をしていた。

「今日は特に冷えるね」
 そう言った同僚に、そうだ、と何かを思い出した彼女は、自身のポケットからカイロを取り出した。

「午前いっぱいは温かいと思うから、ポッケに入れて? お尻のポケットが良いかも」
 自分だって寒いだろうに、人のために……。

 それから彼女が気になりはじめた。だから、いつからか毎朝の彼女への挨拶がクセになった。毎日機嫌良く挨拶を返してくれる彼女を愛おしく思うには時間はかからなかった。

 俺には妻がいて帰る家もあるのに……ほんの少しの罪悪感がありつつも、社内では彼女の姿を目で追う日が続いた。

 ある日、女性社員に絡まれる彼女を何度か助けた。それがきっかけで彼女とは距離が縮まったように思う。

 名前、出身地、年齢がわかった。それから、左手の薬指にあるものも。

 なんとなくショックを受けた。自分だって妻がいる身だから人の事は言えないが、諏訪原さんが他の男のもので、そいつに抱かれているのだと思ったらモヤッとした。朝起きて一番初めに聞く寝起きの声が聞ける、顔も知らない人に嫉妬した。

 そんな嫉妬とモヤッとした気持ちを抱えて何日か過ごした。隙を見ては彼女に近づいた。出先で手に入れた菓子をこっそり彼女にあげた。妻と喧嘩をして眠れなかった翌日は、顔色が悪いと気がついてくれ、思わず愚痴をこぼしてしまった。妻の愚痴なんて聞かせたくはなかった。だけど、彼女の柔らかくて優しい空気に、気持ちも解れた気がした。それに、隣にいるだけで、甘くてまろやかな、とても良い匂いもする……。

 そんな幸せな日々は、課長からの異動の話で終わりを告げた。急で悪いんだが、と、ひと月後の海外異動が言い渡された。支社を立ち上げるメンバーに選ばれ、人事の面でのサポートをして欲しいと言われた。

 真っ先に思ったのは、諏訪原さんとこれで会えなくなる、それだった。妻を連れて行く事の不安よりも、彼女と話すわずかな時間がなくなる事の方が不安になった。

 また社内で絡まれたらもう守ってやれない。自分が居なくても彼女の日々は続いていく、その寂しさも相まって、彼女に話をしなければ。ただそう思った。

 翌日から彼女に話しかけるタイミングを見ていたが、休みだったり、同僚の方が居て、彼女1人、という時はなかなか訪れなかった。もう今日話さなければあとは無い、そう思っていたのに、彼女は職場に居なかった。一日中、彼女が気になって、退勤時間が来た。もうダメだと諦めて玄関を出たところで彼女の後ろ姿が遠くに見えた。間違いない。

 そこから走った。信号につかまり、自転車に遮られてもなお走り続け、ようやく追いついて声を掛ければ、彼女は変わらず柔らかい空気で俺を包んでくれた。

 公園のベンチに腰掛け、異動のことを話そうと思ったが、彼女の顔を真横で見たらたまらなくなり、彼女にキスをした。止まらなかった。彼女から発する、甘くてまろやかな香りをもっと感じたい。俺のものなのだとわからせたい。彼女の全てが、欲しい。

 だが無理な話だった。無機質な音が耳に届いた事で冷静さを取り戻せば、彼女を搔き抱いていた事に気がついた。髪は乱れ、着ているものも着崩れている。こんな姿を他の男に見せられない……それらを直してやり、彼女に少しでも俺を覚えていて欲しくて、髪、手のひらにキスを落とした。

 手のひらへのキスは求婚の意味もあるのだと本で読んだから知っている。互いに、左手の指輪が無かったならよかったのに。そうしたらこのタイミングで――。
 
 ずるいかもしれない。だけど、言葉にできない想いを伝えるにはこれしかないと、手のひらへキスをした。その意味を解ってくれただろう彼女も同じキスを俺の手のひらに返してくれた。無言で交わされた誓いは、今も左手のひらにある。

 ずっと愛してる――。
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