さよならと誓いのキス

7

 あれから数日が経った。次の日も、その次の日も、これまで通りに仕事をこなしてきた。

 琴乃はある事に気がついた。柴の姿を全く見ないのだ。出張だろうか。人事課に出張があるとも思えず、ならば何故――。胸さわぎがして、だけど社員の個人情報を清掃スタッフが聞くわけにもいかず、悶々とする日が続いた。

 喫煙室の清掃をしていた時だった。男性社員の会話が聞こえてきた。

「柴さんからメール来たよ、ニューヨークは賑やかで良いんだけどこっちが懐かしくて寂しいってさ」
「海外支部立ち上げのスタッフなんて大変だよなあ」
「何年かしたら戻ってくるんだろ?」
「どうかな、たまの帰国はあるかもしれないな」
 その時は飲みに行きたいな、と盛り上がる彼ら。

 ――えっ、異動? 次の日じゃだめって、そういうこと……?

 琴乃は動揺した。だが、そうかと納得もした。もう会えないのかも、そう思ったあの時感覚は当たっていた。

 それからの琴乃は柴の事で頭がいっぱいで仕事にならなかった。

『おはよう、今日もよろしくね』
『これあげる、出先でもらったけど数ないから……特別だよ、皆んなには内緒ね』
『昨日は奥さんと喧嘩しちゃってさー参ったよ』
『考えて解決できない悩みなら、俺のこと考えて良いよ、なんてね』

 何度も話しかけられた事を思い出してばかりいた。給湯室と社員食堂で助けてくれた以外にも、琴乃の姿を見かけるたびに話しかけてくれていた事を思い出していた。ありがとう、といつも声に出して伝えてくれた。落ち込んでいた時は励ましてくれた。たまには愚痴も吐いてくれて、そんな日がずっと続くと思っていた。

 異動なら、それならそれで言って欲しかった。いつも助けてくれたことのお礼もできたのに。海外でもがんばってね、くらい言いたかった。あんな、忘れられないようなキスをして、そのまま黙って去ってしまうなんて、柴さんはずるい。

 ようやく退勤となり、更衣室として割り当てられている部屋の窓から街を見下ろせば、手のひらへ落とされたキスを思い出す。2人だけの秘密の誓いのキスは、琴乃の心に強く刻み込まれた。

「愛してる……」
 左手のひらに自分でキスをして、そのまま顔を覆う。伝うものを拭う事もせず、ただ、芝を思い出していた。

 愛してる。

 さよならのキスは琴乃の心に刻み込まれた。
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