さよならと誓いのキス
 ――このまま溶け合ってしまいたい……。

 そう思った矢先、琴乃が膝に乗せていたカバンが足元に落ちた。その拍子にカバンから家の鍵がチャリと音を立ててまろび出た。

 それまで互いが発する音しか聞こえなかった二人の耳に無機質な金属音が届いた。

 どちらからともなく動きを止め、唇を離した。抱きしめる腕を緩めた柴は、落ちたものを拾う琴乃の乱れた髪を直しながら、髪をひと房持ち上げ、そこに口付けた。次いでそのまま琴乃の左手を取り、手のひらにキスをした。

 髪へのキスは親愛、手のひらへのキスは求愛や求婚の意味があると読んだ事がある。柴にそういう思いがあるかはわからないが、少なくとも琴乃は、そういう事なのだろう、と思った。だから、琴乃も柴の左手を取って、その返事をするように、彼の手のひらにキスを返した。

 柴は嬉しそうに笑みを浮かべ、琴乃をふわりと抱き寄せた。そうして微笑みあう2人は軽くキスをして、離れた。
 誓いのキスにも似て琴乃は幸せを感じつつも、だがやはり、ふたりは既婚者なのだ。間には越えたらいけないラインがあり、柴は懸命に、口から出る言葉を飲み込んだのだろう事は容易に思い至る。

 その末の、手のひらへのキスだったと考えると、たまらなく泣きそうになった。ここで泣いたらダメだ。柴を立ち上がらせ背中を押した。出口方向に、押した。

「こっ琴乃っ…」
 泣きそうな顔をする柴に、笑顔で頭を振る。

 ――もう会えないのかもしれない。

 何故そう思ったかわからないが、そんな予感がした。

 いま何かを柴に言うことはできなかった。声を出したら止まらなくなる。彼を困らせてしまう。そんな事はしてはならない。歯を食いしばって、夜の闇の向こうに溶けて行く、今しがた想いが重なったばかりの愛しい人を見送った。

 どこから始まったのか、始まったのかさえわからないくらいにボヤけている、けれど決して消えはしない、踏み越えてはいけないラインがふたりの間にはあった。いま自分はその上を歩いているのだ。そこから降りる事も、離れる事もできない。ただわけもなく胸が苦しく、柴の背中が見えなくなった頃、頬は濡れるままに任せるしかなかった。
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