揺れる夾竹桃
それから1週間、私と真城は何事もなかったように過ごした。仕事中は普段通りの振る舞いをし、家でも何食わぬ顔で夫と接した。子どもの話などしていないかのように、普段通りルーティーンを朗らかに繰り返す。違うのは枯れ果てた私がもういないということだけ。生活リズムも見た目も変わらない。夫の知らない空間でほんの数十分セックスしただけ。気づかれるわけがない。気づいてくれるような人なら、きっと最初からこんなことにもなっていないのだろう。その事実は寂しいものだが、私が犯した罪を考えるとそんなことも言っていられない。しかしその罪のおかげで、この1週間どれほど安らかな気持ちで過ごせたことか。夫のために料理をしている途中でも、ふと記憶がよみがえることもあった。あの夜の光景を、感触を、思い出すだけでも身体が疼く。目の前の現実など最早求められる快感のための前戯のようなものだった。心まで濡らす真城の存在は現実すら救ってくれる。惚れているわけではないのに、常に自分の中にいる。これが浮気かと自分の中で納得した。
その日もいつも通り仕事をこなし、締め作業を終えた。手伝ってくれたのは横山さんだ。今日はこの後飲みに行く約束をしている。失恋直後ということもあって心配していたが、割と彼女は元気そうに見えた。いっしょに職場を出て、何度か彼女と行ったことのある居酒屋へ歩いて向かった。職場からも駅からも近く、個室付きで居酒屋にしては静かな店なので、割と気に入っている。外は日が沈んでいるものの蒸し暑さがうっとうしい。職場でシャワーを浴びてこれば良かったと思ったが、横山さんを待たせるわけにもいかないのでどうしようもない。今日の仕事などの他愛ない話をしているうちに到着した。
横山さんはいつも通り楽しんでいるようだった。メニューを見るときも、彼女はどれにしようかなとわくわくした顔で迷っている。どうせいつもファジーネーブルにするだろうに、あれもいいこれもいいと目をキラキラさせているのだ。状況そのものを楽しんでくれる彼女にはご馳走し甲斐がある。案の定彼女はファジーネーブルにするようで、私は自分のビールとつまみを何点か注文し、お疲れさまと乾杯した。話題は早速横山さんが別れたときの話になり、いろいろと詳しい話を聞いた。別れを切り出したのは彼氏からだが、どちらからともなくと言う方が相応しいようだ。別れの空気がしばらく続いた後、彼氏がそれに耐えきれなくなったらしい。その空気の間は横山さんもいっしょにいて楽しいと思えず、以前は気にならなかったはずの彼の嫌な部分をだんだん馬鹿馬鹿しく思うようになったそうだ。
「やっぱり好きな気持ちが大きいときってなんだかんだ許せちゃうじゃないですか。私尽くすのは好きなんですけどそれを当たり前って思われたらそりゃ誰だってムカつきますよ!」
「そうね、人として大事だもんね。」
「でしょ!?なんか私ばっかり虚しいなって思っちゃって。そしたらどんどん冷めちゃったんですよね。まぁ向こうもそんな私といっしょにいて楽しいわけないから、こうなるのはわかってましたけど。」
一通り横山さんの話を聞いてなんとなく把握した。彼は優しすぎるわけでもないし変な人でもない。彼女と同い年で話を聞く限り楽しく恋愛ができそうな彼氏だと思うし、横山さんのことも大事にしていただろう。しかしあくまで推測だが彼は横山さんに疲れたのだと思う。彼女が尽くしているのは彼のためでなく、自分がしたいことをしたいようにしているように思える。そしてそのことを本人が自覚していないため、彼からしたら恩着せがましく思えるのだ。頼んでもいないことを勝手にやり、感謝を求められれば疲れるのは必至だろう。もちろん私の勝手な推測でしかないし、それを本人に言うつもりもない。しかし冷静に彼女を見たとき、なんとなくそんな気がしてしまったのだ。記念日に手紙、誕生日はサプライズ、クリスマスプレゼント必須でバレンタインは手作り、若く眩しい恋だ。しかしそれを楽しんでいるのはあくまで彼女であり、彼氏は楽しんでいる彼女を見ることが楽しいものである。まだそれを理解できる年齢ではないだろうから、きっとそれを伝えてみたところで横山さんは納得しない。それにそういう楽しみ方をする恋は、それこそ若いうちしかできないのだから、思う存分悩み、楽しみ、経験を積む方がいいと思う。とは言え彼女がだらだらと話す彼の情報にも飽きてきたので、私は話の舵を切った。
「次の候補はいるの?さすがにまだ?」
横山さんはうーんと唸りながら2杯目の梅酒ソーダに刺さったストローをぐるぐると回した。少し炭酸がきつかったらしい。既に顔が赤らんでいる。
「候補とは言えないけど。気になる人なら。」
「おぉいいじゃん。どんな人なの?」
横山さんがまた唸りながらストローを回す。今度は先ほどより少し早い。
「えっと…真城さん。」
あまりに予想外の答えに私は一瞬硬直してしまった。一気に鼓動が脈打つようになるのを感じる。横山さんが真城をそんなふうに思っているとは少しも気づかなかった。
「えっ真城…ってうちの…?」
動揺を悟られないようにしながら私は続きを促した。
「うん。わかりにくいけど、真城さん優しいんだよ。それに見た目もかわいいし、あれは相当モテてると見たね。」
動悸が止まなかった。見た目はともかく、横山さんが真城を優しいと言うのがどうにも気になる。私から見て2人はそんなに接点があるように見えなかったし、普通の同僚として見ているように思っていた。なので今の今まで2人をそんなふうに考えたことすらなかったのだ。気はすすまないが少し聞いてみることにした。
「どういうとこが優しいって思うの?」
「別れたって話聞いてくれたんです。私ずっと愚痴っちゃって。ただただずっと聞いてくれました。」
「そうなんだ…。え、それは飲みに行ったとか?」
「うん。」
私は胃が重くなるのを感じた。2人はそんな仲だったのか。真城が誰と何をしようがもちろん自由だが、なんとなくモヤモヤする。この話の流れ的にその後関係を持ちましたと言われてもおかしくない。真実をはっきり聞くのはさすがに怖かったが、すぐに横山さんの口から語られた。
「ぶっちゃけ抱かれに行く気持ちだったんですよ。あ、夏海から誘ったんですけど。でも全然なんですよもう。手も繋いでくれなかったです。けっこう粘ったのに。絶対夏海の気持ち気づいてるくせにですよ。本当悔しくて、なんか私魅力ないかなってへこんでます。」
正直まず安心してしまった。冷静に考えれば私と仲のいい横山さんにこのタイミングで手を出すはずがないが、それでも不安に思ってしまった。そんな資格もないのに嫉妬している自分が情けない。それから想像以上に横山さんがアグレッシブで驚いた。失恋の傷のせいで自暴自棄気味なのかもしれない。真城がどう思っているかわからないが、長い目で見れば私と横山さんのどちらが魅力的かは火を見るより明らかだ。どう考えても勝ち目はないが、真城を盗られるのは絶対に嫌だった。私のものでもないのに、理屈ではなんともできない独占欲が確かに存在する。横山さんにはどうにか手を引いてほしいが、特にその手段もなかった。
「そんなことないよ、横山さん十分かわいいよ。同じ職場の人だからそういう関係になれないってだけじゃないかな。」
特大のブーメラン発言だったが、無難な返答しか思いつかなかった。
「そうなのかなぁ。でも悔しいんだよー!」
意外とプライドが高いのか、自分の魅力を否定されるのが許せないのか、いずれにせよ今まで私が見てきた横山さんのイメージとはかなり差がある。見た目がかわいい故に男がほっとかないし、それを楽しめるタイプだったようだ。だからこそ自分に振り向く素振りすらない真城にこだわっているのかもしれない。
「もしかしたら彼女いるのかもしれないし、横山さんならいくらでも選択肢あるでしょ。そのうちいい人現れるよ。」
「いやそれがね、彼女はいなくて。でも好きな人はいるって言うんですよ。」
「え、そうなの?」
「うん。告白しないのって聞いたら相手にされるわけないんだって。よくわかんないんだよね。牽制されたのかなー。でもそれなら彼女あるって言うだろうしなー。」
私はまた胃が重くなるのを感じた。これはどう受け取るべきだろう。仮に横山さんの話が事実だとして、真城はどういう意図だったのか。好きな人とは誰を浮かべているのだろう。私はその人の代わりなのだろうか。そもそも私はどう思われているのだろうか。しかし今それを考えたところで仕方ない。
「そうだね…牽制かもね。私としては2人が変に気まずくなっちゃったりしたら仕事やりづらいし丸く収まってくれるのが一番いいけど。」
「あーそっかぁ、本田さんに迷惑かけるのは良くないよね、そこはちゃんと気をつけます!」
「いやそんなそんなそこまで気にしなくていいんだけど。やっぱり仕事は大事だからねってだけよ。」
「はい!さすが本田さん大人ですよね。夏海これ以上変なことしないようにします。」
彼女はにこやかに梅酒の残りを飲み干した。言葉だけを見れば横山さんは真城から手を引くのだろう。しかし今の私は見逃さない。まだ彼女の眼光が鋭く光っていることを。つくづく女はどこまで行っても女だなと思い、私もジョッキを空けた。
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