【短】逃げないことを、逃げの言葉にするのはいい加減して
彼の今の台詞の意図が、分からなかった。
でも…。
もしかしたら、本当に私は彼から逆に別れを告げられるのではないか…?
という思いだけが、むくむくと生まれていく事を感じた。
その日を境に、なんとなく彼の動向を気にする事が多くなる。
まさか、こういう展開になるとは。
私は深く溜息を吐く。
また、まどろっこしいやり方。
小狡い、子供のような所も…付き合い出した頃は、可愛いと思ったし、彼の魅力の一つだと思っていたけれど…。
「今は、なーんとも感じないのよね…」
最近、溜息がやたらと増えた。
その分、眉間のシワも増えている気がしてならない。
「奈々恵…話があるんだ…」
ある夜、前と同じ様に自室に篭って仕事をしていると、また控えめなノック音と共に、彼の懇願にも近い声がする。
私は、それに対して一呼吸間を空けてから…。
「…分かった。リビングで待ってて?すぐに行くから」
と告げる。
そして、引き出しの鍵を開けた。
今夜が勝負、そんな風に思ったのだ。
だから、外してからハンマーで思い切り潰しておいた、ぐにゃりとひしゃげた指輪と離婚届を手にして、部屋を出る。
すると、缶ビールを片手にした彼の背中が、ソファーの背もたれから見えた。
「話ってなぁに?酔ってないと言えないような事なの?」
「いや…あの、さ。俺…」
挙動不審に動いて、私から逸らされた視線。
私はわざとそんな彼の顔を覗き込み、にっこりと微笑んだ。
「いいわよ?」
「…え?」
「別れて欲しいんでしょう?」
「奈々恵…?」
「ほら。全部準備済みだから。あとは貴方が名前を書いて、判子を押すだけ…」
まるで、信じられないと言った顔をする、彼。
何も、今更そんな事をする必要なんて無い筈なのに、彼は肩を震わせた。
「奈々恵!…俺は…っ」
「いいのよ、無理に繋ぎ止めなくても。元々そうするつもりだったんだから」
「なんで…」
その一言に、胸がざわついた。
でも、それを押し込んで私は淡々と話す。
「なんで…?いつもいつも、何も言わずに何時までも逃げられると思ってるの?」
「それ、は…」
「敦…貴方は何処までも甘いのよ。何をするにも。そう…何もするにもね」
胸の奥がチリチリと痛んでいく。
そんな事は有り得ないと、頭では思っているのに、それと心はバラバラになっていく。