【短】逃げないことを、逃げの言葉にするのはいい加減して
そこで、玄関のドアが静かに開けられた音が聞こえた。
足音を忍ばせて近寄ってくる彼の温度。
「奈々恵…?ただいま。まだ、起きてるか…?」
こんこん、と控えめのノック音。
マンションの外からでも、私の部屋の灯りが付いてる事は伺えるだろうに、鈍感でデリカシーが無くて、本当に如何しょうもない。
と、ここでふと。
『相手に子供が出来たから、別れて欲しい』
なんて、そんなベタな事を言われている自分をイメージしてしまった。
「ま、それもありかなぁ…」
後腐れなく、元々何処かで別れる事を前提に付き合い出したと言っても過言ではない、この関係。
例え向こうがなんと思っていようとも、私はなんだか本当に疲れてしまった。
それだけ、心が摩耗して麻痺しているのかもしれない。
腹立たしくなるほど、面倒くさいのだもの。
「…敦、おかえり。私仕事が佳境に入ってるの。だから先に寝て?」
素っ気なく、ドアを開けて顔を見せる事もせずにそう言うと、ドアの向こう側で彼が居座っているような気配がする。
「敦…?」
「奈々恵はさ、俺の事どう思ってる?」
「…え?」
「俺、ちゃんと夫として機能してんのかなって思って…」
「何よ、突然?」
「…いや。なんでもない。…じゃあ、おやすみ」
カタン
まるで独り言の様な呟きを残して、彼は寝室へと向かったようだった。