海に溺れて
② 患者の死
「いつぞやは主人がたいへんお世話になりました。一時は体調もよくなったのですが、それに油断しまして、先生の言いつけも忘れて飲酒もタバコも再開したあげく、先日、心筋梗塞で亡くなりました」
「えっ、それは……」
僕は突然のことで、口ごもってしまった。
「主人が、体のことだけでなく、人生のことも学ばせてもらったといって、いつも先生のことを話していたものですから、今日は主人のことを報告したいと思いまして、電話をさしあげました」
「はい。力不足で申し訳ありませんでした」
「いいえ、悪いのは主人ですから。私も主人も先生には感謝しているんですよ。主人は、大好きなお酒とタバコをやめてまで生きていたくないと、生前話しておりましたのよ。主人にしてみれば、あれで本望でしたのでしょう」
奥さんの言葉からは、長らく夫婦として山道坂道を乗り越えてきた重みが伝わってきた。僕と妻にとって、息子の死は、登りきれない絶壁のようなものだった。僕は電話をいただいたことに対する感謝の言葉を伝え、電話を切った。今夜は真由子と会いたい、そう強く思った。
真由子を呼び出し、二人でレストランで食事をしたあと、ラブホテルに入った。脱がせるのももどかしく、僕は彼女のパンティに手をかけた。彼女はやさしく、僕の手をとどめ、自分で服とブラジャーをとった。
「どうしたの? いつものあなたじゃないみたい」
「ごめん、なんか鬱々してしまって、どうしても真由子を抱きたくなったんだ」
死に関する話と出会うたびに、亡くした息子のことを思いだしてしまうからなのか、無性に女の体が欲しくなる。どこか穴のなかに入り込んで、ひとときのやすらぎを得たい、そんな原始的な記憶が呼び覚まされるのかもしれない。
真由子は僕の髪をさらりとなでた。
「嫌なことでもあったのね」
なにも答えずに真由子をベッドに押し倒し、少し乱暴に抱きしめた。
真由子のため息ともうめき声ともつかない愉悦な声と、甘い香り、そして汗ばむ肌と肌の感触が快い。
高波がすぐそこまで近づいてきた。海老のように背を折り曲げて、肌と肌、汗と汗、そして息と息、心も体もひとつに溶けあうような快楽にただ身をゆだねた。
おたがいに名前を呼びあいながら、ベッドのなかで魚のように泳ぐ真由子に、乗り遅れないように、ともに果て、そしてふたりは海低のなかで眠るひとつの貝となり、愛しあうものだけに許された、心と体の恍惚感に溺れていた。そして静かに、高波が過ぎ去る時まで強く抱きしめあった。
そうしながらも、つい、死んでしまった息子のことが頭に浮かんでくる。そんなときは、いつも「死とセックスは双子のようなものだ」という言葉を思い出す。たしか、どこかの本に書いてあった言葉だ。そうかもしれない。死が新たな誕生だと思えば、今日、亡くなられた年配の患者に対するやりきれない思いも軽くなる。亡くなった父の顔とよく似ている患者だった。父は僕が二十六歳のときに心筋梗塞で亡くなった。あれからもう五年もたつ。僕はもう一度彼女を抱きたくなった。
「いつぞやは主人がたいへんお世話になりました。一時は体調もよくなったのですが、それに油断しまして、先生の言いつけも忘れて飲酒もタバコも再開したあげく、先日、心筋梗塞で亡くなりました」
「えっ、それは……」
僕は突然のことで、口ごもってしまった。
「主人が、体のことだけでなく、人生のことも学ばせてもらったといって、いつも先生のことを話していたものですから、今日は主人のことを報告したいと思いまして、電話をさしあげました」
「はい。力不足で申し訳ありませんでした」
「いいえ、悪いのは主人ですから。私も主人も先生には感謝しているんですよ。主人は、大好きなお酒とタバコをやめてまで生きていたくないと、生前話しておりましたのよ。主人にしてみれば、あれで本望でしたのでしょう」
奥さんの言葉からは、長らく夫婦として山道坂道を乗り越えてきた重みが伝わってきた。僕と妻にとって、息子の死は、登りきれない絶壁のようなものだった。僕は電話をいただいたことに対する感謝の言葉を伝え、電話を切った。今夜は真由子と会いたい、そう強く思った。
真由子を呼び出し、二人でレストランで食事をしたあと、ラブホテルに入った。脱がせるのももどかしく、僕は彼女のパンティに手をかけた。彼女はやさしく、僕の手をとどめ、自分で服とブラジャーをとった。
「どうしたの? いつものあなたじゃないみたい」
「ごめん、なんか鬱々してしまって、どうしても真由子を抱きたくなったんだ」
死に関する話と出会うたびに、亡くした息子のことを思いだしてしまうからなのか、無性に女の体が欲しくなる。どこか穴のなかに入り込んで、ひとときのやすらぎを得たい、そんな原始的な記憶が呼び覚まされるのかもしれない。
真由子は僕の髪をさらりとなでた。
「嫌なことでもあったのね」
なにも答えずに真由子をベッドに押し倒し、少し乱暴に抱きしめた。
真由子のため息ともうめき声ともつかない愉悦な声と、甘い香り、そして汗ばむ肌と肌の感触が快い。
高波がすぐそこまで近づいてきた。海老のように背を折り曲げて、肌と肌、汗と汗、そして息と息、心も体もひとつに溶けあうような快楽にただ身をゆだねた。
おたがいに名前を呼びあいながら、ベッドのなかで魚のように泳ぐ真由子に、乗り遅れないように、ともに果て、そしてふたりは海低のなかで眠るひとつの貝となり、愛しあうものだけに許された、心と体の恍惚感に溺れていた。そして静かに、高波が過ぎ去る時まで強く抱きしめあった。
そうしながらも、つい、死んでしまった息子のことが頭に浮かんでくる。そんなときは、いつも「死とセックスは双子のようなものだ」という言葉を思い出す。たしか、どこかの本に書いてあった言葉だ。そうかもしれない。死が新たな誕生だと思えば、今日、亡くなられた年配の患者に対するやりきれない思いも軽くなる。亡くなった父の顔とよく似ている患者だった。父は僕が二十六歳のときに心筋梗塞で亡くなった。あれからもう五年もたつ。僕はもう一度彼女を抱きたくなった。