通り雨、閃々
バッグから鍵を出して隣の部屋のドアを開けて入る。
すぐ隣、402号室が私の部屋だ。
リョウの部屋とは逆の造りになっていて、お互いのベッドルームの壁が接している。
その白い壁に触れても、ただ壁紙の手触りがするばかり。
向こう側にいるリョウは、どうせまた眠っているんだろう。

帰っちゃうの? と言われるたび、その腕の中に戻ろうかと一瞬よぎる。
ずっと、朝も昼も夜も一緒にいられたら、と高校生みたいに青臭いことを願いそうになる。

でも、私はあんな男に屈したりしない。
本当は屈していることを、悟られてはならない。
そんなことになったら、私は惨めさで身体が小さく小さく縮んで、ひからびたダンゴムシみたいになって、道路脇の埃に紛れて消える。
だから、甘い言葉にうかうか乗るわけにいかない。

ふとリョウの匂いがして、私はブラウスの袖を鼻に持っていった。
早春の朝のような深くてしずかなグリーンの香り。
シャンプーなのかボディソープなのか香水なのか。
リョウが身につけている匂いだけは、私の後を追ってくる。

叩きつけるように洗濯機に放り込んでシャワーを浴びた。

下ろし立てのシャツの衣擦れの音で、やっと平常心が戻ってくる。
きちんとした格好をして、遅刻もせず、まっとうに働いていれば、あの惨めさとは遠い場所にいられる。

401号室の前を通るときは、身体が少し強ばる。

一瞥もくれてやるものか。
私はヤツのモノになんてならない。
ひと欠片だって。

小さなエレベーターのドアが閉まって、私はほっと息をついた。
エレベーターが揺れるたび、リョウが遠ざかっていく。

こんな気持ちをくり返すなら、いっそ引っ越した方がいいのかもしれない。
そもそも402号室という部屋番号は、あまり縁起のいいものではないのだし。

雨上がりの路面に出ると、むわりと立ち上る湿気でシャツが肌に張りついた。

気持ち悪さに耐えながら歩く背中に、視線を感じてふり返る。
見上げた先、ベランダから身を乗り出すようにしてリョウがいた。
朝日の中で見る乱れた金髪は、より一層退廃的でどうかしている。
リョウはのんきなもので、歯磨きをしながらひらひらとこちらへ手を振っていた。

私はそれに背を向け一層背筋を伸ばし、棒切れのようになって道の先を行く。

その日は一日、リョウの笑い声がずっと背中に残っているような気がした。


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