はじまりのワルツ
 はじまりは、ただの恋だった。
 
 きっちりと閉じられた部屋の扉から、彼が奏でるピアノの音がする。扉にはめ込まれた磨り硝子から、ぼんやりと見える彼のシルエット。私には到底弾きこなせないような難解な曲も、彼にかかれば魔法のように自分のものにしてしまう。一体あの指にはどんな秘密があるのだろう? こっそり扉を開けたい衝動を我慢しながら、私は扉に背中を合わせてその場に座る。
 もし、彼の音楽を聴けない日が来るとしたら私は——死んだほうがましかもしれない。
 
 
 *****
 
 
 緑の多い住宅街。バス停からも駅からも離れたこの場所は、車が無ければ相当に不便だ。夫の夏芽(なつめ)は、当初ここに家を買うことに反対し、駅前にできた新しい分譲マンションを買おうとしていた。当然だった。彼は電車通勤なのだから。それでも、最後は譲ってくれた。「そんなにここが気に入ったなら、ここに決めよう」と言って。
 
 夏芽と結婚してから五年が過ぎた。
 異業種交流会で出会った私たちは、お互いの気持ちを確かめ合うより早く、周囲に盛り上げられて何となく付き合うようになった。同い年の夏芽はスマートで明るくて、場を盛り上げるのがとても上手な人だった。見た目も小綺麗だったし、収入も十分だった。そこそこ名の知れた大学を出ていて、借金もギャンブル癖も無く、お酒も嗜む程度だった。だから、結婚しようと言われた時、別段断る理由が見つからなかった。
 
今になって思えば、断る理由は一つあったのに。
 夏芽は、音楽にまるで興味が無かったのだ。
 

 *****
 
 
「うわ、やっぱデカいな。想像以上」
 
 夏芽と私が暮らす二階建ての一軒家に新しくやってきた白いアップライトピアノを見て、彼は苦笑いした。中古とはいえ、電子ではなくアコースティックピアノである分、値は張った。パートでコツコツと貯めたお金と、結婚前の貯金をあわせてようやく手に入れた。少し時間がかかったのは、白いピアノがなかなか見つからなかった為だ。
「そうかな。そうでもないと思うけど」
 
 配送業者の人たちが帰った一階のリビングには、夏芽と私、そして白いピアノが残された。急に存在感のあるものが置かれ、夏芽が苦い顔をするのも無理はないのかもしれない。
 鍵盤蓋を両手で開けると、少し色褪せた鍵盤が姿を現した。恐る恐る、指を伸ばす。ピアノに触れるのは何年振りだろうか。

 ポン、と音が鳴る。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ……と順に鍵盤を押すと、わずかに違和感を覚えた。
 
「音、狂ってる」
 私が言うと、夏芽は「え?」と眉根を寄せた。
「何。狂ってる、って」
「ほら。この音と、ここも。音程がおかしいでしょ?」
 ポン、ポン、と音を出しながら彼に説明するも、やはり夏芽にはわからないらしい。
 
 夏芽にわかるわけがない。
 ピアノにも音楽にも、そして私にも関心が無い夏芽になんて、わかるわけがないのだ。
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