さつきの花が咲く夜に
 母は満留の涙を両掌で包むように拭うと、
笑んだままでひと言、「ごめんね」と言った。
 その言葉に込められた意味を思えば、また
満留の視界がぐにゃりと歪んでしまう。

 けれど、涙が零れ落ちそうになったその時、
コンコンコン、と病室のドアが鳴った。

 「はい」と母が返事をすると、パソコンや
医療器具を載せたナースワゴンを押しながら、
「失礼しまーす」と看護婦が入ってくる。

 満留は慌てて入り口に背を向け、手の甲で
涙を拭った。

 「桜井さん、お加減はいかがですか?体温
と血圧測りたいんですけど」

 入り口の白いカーテンを捲り、看護婦が顔
を覗かせる。するとすぐに、母娘の間の微妙
な空気を感じ取ったのか、看護婦はそこで立
ち止まり、二人の顔色を窺った。

 「ごめん、ちょっと顔洗ってくるね」

 満留はぼそりとそう言うと、顔を背けなが
ら看護婦の横をすり抜けた。

 ぴしゃりと病室の戸を後ろ手で閉めた瞬間、
肩の力が抜けてしまう。満留はいつもよりや
わらかく感じる廊下を歩きながら、母の前で
泣いてしまった自分を悔いた。 


 休日の病院は見舞客が多く、一人になれる
場所はあまりなかった。エレベーター前の談
話室も廊下の長椅子も、お喋りをする患者達
や見舞いに来た家族の笑みが溢れている。

 満留はその横を鬱々とした気分で通り過ぎ
ると、廊下の突き当りにある狭い窓から空を
見上げた。ほぅ、と息をつく。

 澄んだ空に浮かぶ秋雲(しゅううん)が、風に吹かれ薄く
広がっている。ふと、手の中にある硬い感触
に気付き、右手を広げた。泣きながら鍵を握
りしめたせいで、掌にはバンドの跡がついて
いる。満留はその鍵をもう一度握りしめると、
唇を噛んだ。


――もう絶対、母の前で泣かない。


 そう誓った満留の目は赤かったが、涙が
滲むことはなかった。

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