さつきの花が咲く夜に
 俺が余計なことをしなければ……と、いま
さらそんな後悔が込み上げてきて唇を噛み締
めた。彼女から大切な母親との、最期の時間
を奪ってしまった自分が、追いかけて、追い
ついたところで、何を言えるというのだろう?

 そう思い至れば、全力で追い掛ける気には
なれず、結局、俺はリビングへ戻っていった。

 再び冷たくなったカレーをやけ糞のように
キッチンのゴミ箱へ突っ込み、大量に余った
カレーの鍋を冷蔵庫に入れる。悄然と項垂れ
たままリビングに戻れば、テーブルには彼女
が作ったレシートの河童とポロシャツが残っ
ている。俺はテーブルに歩み寄ると、それを
手に取った。

 『なにコレ?アヒル?』

 『ちがーう。河童だよ』

 ほんの少し前の二人のやり取りが耳に甦っ
て、遣る瀬無い気持ちになる。ほんのひと時
でも彼女の気持ちが楽になれば、と、栄養の
あるものを食べて体力をつけてくれれば、と。
 そう思っただけなのに、どうしてこんな事
になってしまったのか。

 俺は一度手の中の折り紙を握りしめると、
目を閉じ、長く息を吐き出した。

 そうしてまた、手を開く。
 くしゃりと曲がった河童が泣いているよう
に見えて、それが彼女の泣き顔と重なった。

 俺は指先でそれを直すと、ジーパンのポケ
ットから財布を取り出し、失くしてしまわな
いよう札入れの中にしまった。


 このまま何もなかったように、元の生活に
戻ることなど出来そうもなかった。


 もう一度、彼女に会いたい。
 たとえ、許してもらえなくても。
 そう思えば、いますぐあの場所に駆けて
ゆきたい気持ちがせり上がって心をざわつか
せる。俺は息をつくと、どさ、とソファーに
身を預けた。目を閉じて、じっと時が過ぎ去
るのを待つ。――早く夜が明けて欲しい。

 そう祈りながら、深い眠りに落ちていった。







 翌日。
 昨日のカレーをレンジで温め、簡単に夕食
を済ませると、あの中庭に向かった。


――いるわけない、絶対に。


 そう思いながらも、「もしかしたら」という
淡い期待に、知らず歩幅が広くなる。
 大通りの信号を渡り、川沿いの道を早足に
進むと、病院の駐車場の脇を抜け、俺は中庭
に足を踏み入れた。

 「……やっぱ、いないか」

 誰もいない中庭をぐるりと見渡すと、俺は
緩やかに落胆した。それでも、そのまま立ち
去る気分にはなれず、彼女と座ったベンチに
腰掛ける。そして、闇を切り取るように聳え
立つ国立病院を、じっと見つめた。

 無数に灯りを灯すあの部屋のどこかで、
いま彼女は泣いているのだろうか?自分を責
めながら、たった一人で泣いているかも知れ
ない。ふわりと彼女の泣き顔が目に浮かんで、
居た堪れない気持ちになる。

 傍にいてやりたいと思うのに、それすらも
出来ない自分が不甲斐なかった。
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