さつきの花が咲く夜に
 おそらくは、このまま待っていても彼女が
中庭に姿を現すことはないだろう。
 明日も、明後日も、明々後日も、彼女が
俺に会いにこの場所を訪れることは、きっと、
ない。細く長いため息を吐くと、俺は自嘲の
笑みを浮かべた。

 それでも諦められないと思うなら、自分か
ら会いに行くしかなかった。


――明日、彼女の職場を訪ねてみよう。


 そう決心すると、立ち上がり空を見上げた。
 夕刻まで降り続いていた雨は上がり、雲の
隙間に朧月が見える。いまこの瞬間も、同じ
空の下に彼女がいると思うだけで、重く沈ん
だ胸が僅かに軽くなった。俺はくるりと踵を
返すと、暗闇にひっそりと咲くさつきの花を
横目に見ながら家路についた。







 大通りの信号を渡り、三叉路を左に進んで
ゆくと、我が家の二階に灯りが灯っていた。


――父の部屋だ。


 母は早朝からフライトに出ていてしばらく
は戻らない。俺がいない間に夕食を済ませ、
さっさと自室に籠ったのだろう。

 「カレー、喰ったのかな……」

 俺は、めったに顔を合わせることのない同
居人の靴を玄関で確認すると、リビングへと
入っていった。

 父は、カレーを食べたようだった。
 食べ終わった皿が汚れたままシンクに置い
てあったので、俺はそれを綺麗に洗い、ソフ
ァーに身を投げた。

 気分が沈んでいるからか、身体が重かった。
 少し休んで睡魔が遠のいたら、風呂に入っ
て勉強を始めよう。そう思い瞼を閉じると、
すぐに浅い眠りが訪れた。


 それから、どれくらい時間が過ぎたころだ
ろうか。鼻をつく嫌な匂いに目を開けた瞬間、
部屋中に消魂(けたたま)しいサイレンの音が鳴り響いた。


――ピュー、ピュー、火事です!火事です!


 無機質なその声に、びりり、と全身に電流
が流れ、飛び起きる。慌ててキッチンに駆け
て行ってガス台を確認するが、ガスが漏れて
いる様子もなければ火事も起きていない。

 「……まさか」

 ぞくりと、冷たいものが背筋を撫でた。俺
は流しにあったタオルを水で濡らすと、口を
塞いでリビングを出た。二階に続く階段を見
上げれば、すでにうっすらと煙が漂っている。
 本来なら冷たいはずの空気が不気味な熱を
含んでいた。俺は、ぎゅっ、っと何かに心臓
が掴まれるような感覚を覚えながらも二段飛
ばしで階段を駆け上がった。

 「父さん!!」

 二階の最奥の部屋に辿り着くと、俺はあり
ったけの声で叫んだ。が、返事はない。
 躊躇う間もなくタオルでドアノブを掴んで
父の部屋を開けると、恐ろしい光景が目に飛
び込んできた。

 黄色い炎が踊るように部屋を燃やしていた。
 分厚く閉じられたカーテンも、古い本棚も、
そしてあろうことか父の横たわるベッドにも、
炎が燃え移っている。

 「父さんっ!?」

 その光景に絶望する余裕もなく、俺は灰白(はいじろ)
の煙と炎が立ち込める部屋の中に飛び込んだ。
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