楽園 ~きみのいる場所~

「このまま一緒にいて、子供ができて、いつか子供に聞かれたらなんて答えるの? 『どうしてパパはパパじゃないの?』って聞かれたら? 『どうしてパパとママは名字が違うの?』って聞かれたら? 『どうして愛人の子になんてしたんだ』って責められたら――」

「――やめてくれ!!」

 バンッと両手でテーブルを叩き、その手をじっと見据えたまま顔を上げられずにいた。

 勝手なのは承知の上だ。

 それでも、母さんを引き合いに出されて、黙ってはいられなかった。

 子供の頃、何度も聞いた。

『お父さんはどこにいるの?』と。

 その度に、母さんは言った。

『大事なお仕事があって、一緒にはいられないの』と。

 父親のことを話す母さんは、いつも穏やかに笑っていた。

 父親のことを、悪く言うのを聞いたことがない。



 それは、母さんが父さんを愛していたから――?



「一緒にいたら、いつか嫌いになりそうで怖いの……」と、楽が震える声で言った。

 顔を見なくて、泣いているとわかる。

「悠久を……好きなままでいたい」

 楽が泣いている。

 早く、彼女を抱き締めなきゃ。

「あなたを愛していたい」

 抱き締めて、俺も愛していると伝えなきゃ。

「だから、さようなら」

 行くなと、行かないでくれと言わなきゃ。

 どんなに身体に指示を出しても、動かない。

 事故の直後の方が、きっとまだ少しは動けた。

 楽が立ち上がり、俺のすぐそばを横切る。

 彼女の香りは鼻をくすぐるのに、僅かに指を動かすことさえできない。

 今、このまま楽を行かせてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。

 引き留めなければ。



 だが、楽はそれを望んでいないのに?



 いや、それは萌花との離婚の目処が立っていないからだ。

 俺を愛していないわけじゃない。



 だから、楽をこの家に縛るのか?



 たとえ夫婦にはなれなくても、明堂貿易の後継者となれば楽に裕福な生活を保障できる。

 それに、俺は妻の目を盗んでこの家に通うわけじゃない。この家で楽と一緒に暮らすんだ。今までと変わりない。



 だからといって、楽が幸せになれる――?



 自問自答を繰り返している間にも、楽の気配は遠ざかって行く。

 そして、玄関のドアが開く。

「ご飯はちゃんと食べなきゃダメだよ?」

 そう言って、楽は出て行った。

「行くな……」

 やっと絞り出した声が、虚しく響く。

「愛してるんだ……」

 受け入れてもらえない告白が、頭の中でこだまする。

「行かないでくれ……」



 もう……遅い――!



 愚かな俺に残ったのは、昨夜の彼女の感触と、ゆうに三日分はある温かい料理だった。
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