楽園 ~きみのいる場所~

 それから、私は一日おきくらいに『エデン』に通った。

 おじいさんには会えたり会えなかったりだけれど、会えた時は一緒に食事をした。

 オーナーさんとも店員さんとも気軽にお喋りできるようになった。

 オーナーさんは昌幸(まさゆき)さんといって、三十七歳。

 店員さんは昌臣(まさおみ)さんといって、二十一歳の大学生。

 おじいさんは近くの産婦人科の院長さんで、七十二歳。

「院長と言ってもお飾りで、今はもう、婿に全て任せているけどなぁ」と、おじいさんは言っていた。

 さすが、五十年近く産婦人科医をしてきたベテランのお医者様。

 私の顔色や肌を見て、「今日はこれを食べたらいい」と、足りない栄養を補うようにメニューを決めてくれたりする。

 それが嬉しくて、通うのをやめられない。

 昨日、修平さんと浩一くんが遊びに来て、こってりの味噌ラーメンを食べたせいか、朝から胃の調子が悪かったら、それを見抜いたおじいさんは、昌幸さんにグレープフルーツを絞るように言った。

 メニューにないものまで作ってもらうのはと気が引けたが、グレープフルーツの香りに喉が渇いた。

「そろそろ病院に行った方がいいだろうね」

 生絞りのグレープフルーツソーダを飲んでいると、おじいさんが言った。

「病院? 楽さん、どっか悪いの?」と、昌臣くんがテーブルの横にしゃがんだ。

「どこも悪くは……」

 そう言ったものの、最後までは言い切れない。

 気づいていながら、目を背けていた。

 違う。

 期待を裏切られたくなかった。

 私はグラスを置き、そっとお腹に手を添えた。

「その様子だと、受け入れているようだな」

 私はキュッと唇を結び、小さく頷いた。

「え? なになに? 楽さん、病気なの?」

「違うよ。楽さんは妊娠してるんだ」

 昌幸さんが昌臣くんの頭にポンと手を載せた。

「妊娠?! マジで?」と、昌臣君が私の顔を覗き込む。

「ああ」

「昌幸が良縁に恵まれたかと思ったんだがなぁ」と、おじいさんが呟いた。

「最初っから、楽さんが妊娠してるから様子を見てるように言ってきたくせに」と、昌幸さん。

 それを聞いて、呑気にお店に通っていたことを申し訳なく感じた。

「すみません、ご迷惑を――」

「――全然迷惑なんかじゃないよ? 大事なお客様だしね。楽さんの様子が気になったのは、じーちゃんの職業病みたいなもんだし。俺だって、ホントに見てるだけだったし」

「それでも――」

「――あれ? 楽さん、結婚してないって言ってなかったっけ? ――って! なにすんだよ!」

 パコンッ! と清々しい音が店内に響く。と同時に、昌臣くんが両手で頭を抱えた。

 昌幸さんが昌臣くんの頭をトレイで叩いたのだ。

「お前はデリカシーって言葉を知らねーのか!」

「はぁ? 俺はただ、結婚してないなら、兄さんにもチャンスが――って! だから痛い!!」

 もう一度、パコンッ! と響く。

 頭のてっぺんは昌臣くんの手があるから、今度は後頭部。

「ごめんね、楽さん。こいつの言うことは気にしないで――」

「――くくっ!」

 兄弟のやり取りを見ていた私は、堪らずに声を上げた。

「ふふふっ……。ふふっ――」

「――楽さん?」

「ご、ごめんなさい。……だけど、だって……くくっ! すごくいい音がして――」

 お腹を抱えて笑う私を三人が目を丸くして見ている。

 笑っているうちに、涙が滲んできた。

 こんなに笑うのはいつ振りだろう。

 ずっと、苦しかった。

 突然の事故から、ずっと。

 悠久と一緒にいた時も、こんな風に声を上げて笑うことはなかった。そんな余裕はなかった。

 幸せで楽しかったけれど、心のどこかで終わりを覚悟していたから。

 それはきっと、悠久も同じだったと思う。

 だって、高校生の頃の悠久は、良く笑っていたから。目を細めて、声を上げて、心から楽しそうに笑っていた。

 彼の笑顔が、好きだった。

「――ふふっ。……ふ……」

 悠久の子供がお腹にいる。

 きっと、いる。

 この子との出会いが、私の生きる希望になる。

 この子がいてくれたら、私は笑える。

「医者人生の最後に、楽さんの子供を取り上げたいねぇ」

 おじいさんの言葉に、涙が溢れた。

「よろしくお願いします」

 産まない選択肢はなかった。
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