楽園 ~きみのいる場所~

「突然、すみません」

 そう言って戸口に立った彼は、俺とは打って変わって清々しい表情。

「いえ。あの、楽になにか――」

「――副社長。ただいまお飲み物をお持ちしますので」

 藤ヶ谷さんの背後から秘書がそう言い、俺は言葉を飲み込んだ。背筋を伸ばし、ソファに向けて手を差し出した。

「失礼しました。どうぞお掛けに――」

「――いえ、ここで結構です。顔を合わせてひと言お伝えしたかっただけなので」

 藤ヶ谷さんはギリギリ部屋の外に立っていて、秘書はドアを閉めることも出来ずに困り顔だ。

 誰かに聞かれないかと廊下に目を向けている。

「明堂さん。楽のことは忘れてください。彼女は、俺が幸せにします。今度こそ」

「え――」

 人間、自分に都合の悪いことには反応が鈍くなる。というか、信じたくないという自己防衛反応か。

 とにかく、急に分厚いガラスに阻まれているかのように、彼の声がくぐもって聞こえにくくなる。

「あなたを愛している彼女ごと、受け入れます」

「な――にを……」

 喉の奥の粘膜が乾ききって、うまく声が出せない。

「今度こそ、楽と添い遂げます。だから彼女のことは忘れてください」

 出来るはずがない。

 楽を忘れることも。

 他の男に渡すことも。

「楽は――」

「――息子も楽にはずいぶん懐いていて、楽も息子を可愛がってくれています。何の問題もなく、家族になれそうだ。それに――」と、藤ヶ谷さんは言葉を切り、満面の笑みを浮かべた。

「――最近、身体の調子がとてもいいんです。近々、楽に血の繋がった子供を抱かせてやれそうです」

「な――っ!」

 カッと目を見開き、俺は唇を震わせた。

 唇だけじゃない。

 全身が、怒りに震える。

 楽が、藤ヶ谷さん(この男)に抱かれる。

 おぞましい想像に、ギリッと歯軋りをした。

 だが、そんな俺をうすら笑うように、彼は続けた。

「俺はね、楽を取り戻すためなら、家や会社を捨てることに何の迷いもない。むしろ、全て捨ててスッキリしたいくらいだ。幸い、家族三人で慎ましやかに暮らすくらいの財産はある。誰も知らない土地で、のんびり暮らすのもいい」



 全て捨てたいのは、俺の方だ――!



 喉の奥が熱い。

「話はそれだけです。お忙しいところ、突然押しかけて申し訳ありませんでした。もうお会いすることもないでしょうが、明堂副社長のご活躍を期待しています。――では」

 やっとの思いでひゅっと小さく息を吸った時には、藤ヶ谷さんの姿はなかった。

 戸口には、お辞儀をして彼を見送る秘書の姿だけ。

「全て捨てる……?」

 眉根を寄せ、爪が掌に食い込むほど強く手を握る。

「上等だ――!」

 そうだ。

 復讐なんてしてる場合じゃない。

 ダンッと握り締めた拳を振り被って机に叩きつけると、秘書が身体を硬直させて俺を見た。

「しばらく一人にしてください」

 出来得る限り冷静にそう言うと、秘書は会釈をしてドアを閉めた。

 俺は椅子に身体を投げ出すと、プライベート用のスマホを取り出した。

 目当ての番号を呼びだし、発信する。スマホを耳に当て、くるりと椅子を回転させた。

 窓の向こうには、眩しいほどの青空が広がっている。

『はい』

「今夜、お会いできませんか」

『あなたからのお誘いなんて、気味が悪いわね』

「お互い様でしょう。で? 会えるんですか」

『……いいでしょう。二十時にいつかのお店で』

「わかりました。では」

 皮肉たっぷりの短い会話を終え、俺はひたすら仕事に没頭した。
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