楽園 ~きみのいる場所~
「どこの会社だ」
電話の内容を聞いていた兄さんが聞いた。
「忘れた。要が進めてた中東の取引だが、反政府デモが起きて出航が遅れていた」
「要が……?」
「ああ。フランス国内でしか流通していない香水が、中東の工場から発送される予定だった」
「は?」
「積み荷を献上して、萌花との離婚を認めさせるつもりだったが、必要なくなったな」
兄さんは、ははっと笑い、それから、はーっと深いため息をついた。
「お前、社長に向いてるよ。俺なんかよりずっと」
「ないだろ。俺は自分が自由になりたい一心で会社をぶっ潰そうとしたんだぞ? 潰れないにしても、大ダメージを与えようとした。大勢の従業員やその家族、取引先のことなんかこれっぽっちも考えずに。それで――」
「――俺も同じことをした」
「え?」
「要が足繫く中東に通ってたことは、怪しんでいた。鼻高々にデカい契約を取って来たと言った時には、裏があると思った。だが、妊娠したみちるとの結婚を反対され、俺はこんな会社は潰れてしまえと、要の契約を見ぬ振りした。お前がやらなくても、同じ結果になっていたろう」
「兄さん……」
「お前に『兄さん』だなんて呼ばれると、気味悪いな」と言って、兄さんはフンッと鼻で笑った。
「俺を兄だなんて思ったこと、ないだろう?」
確かに、みちるさんを前に自分を弟と名乗ることには抵抗を感じた。
だが、明堂貿易を捨ててまで愛を貫いたことに、共感したし、尊敬もしている。
それを口に出すのは気恥ずかしいし、悔しいが。
「……兄さんだって俺を弟だなんて思ってないだろ」
「俺は最初から、お前を弟だと思っていたぞ」
「あんな仏頂面してか!?」
父さんに連れられて明堂家に行った時、兄さんはチラリと俺を見てため息をつき、『央だ』と言っただけだった。
「お前には、明堂家に関わって欲しくなかったんだ。だから、父さんがお前を連れて来た時は、悔しかった」
「え――?」
その時が初対面のはずだが、今の口ぶりでは、以前から俺の存在を知っていたように思える。
「要が生まれるまで、俺は明堂貿易の後継者として厳しく育てられた。幼稚園には行かず、母さんと家庭教師によって所作、言葉遣い、勉強なんかを叩きこまれた。だが、要を妊娠して、母さんは変わった。俺のことは家政婦と家庭教師に任せっきりにして、自分とお腹の子供のことを最優先にした。要が生まれてからはそれは更にエスカレートした。同じ家にいても顔も合わさない日もあったし、俺が要に近づくと、母さんは怒った。見かねた父さんが初めて俺を連れて外出した先は、幾久さんの家だった」
「かあ……さん?」
兄さんの口から母さんの名前を聞くとは、想像もしていなかった。
「幾久さんは本妻の子供である俺に嫌な顔をするどころか、抱きしめてくれた。大きなお腹に俺の手を当てて、『あなたの弟がここにいるのよ』って……」
まさか、そんな昔から兄さんが母さんや俺の存在を知っていたとは。
「生まれたばかりのお前の小さな手が、俺の人差し指をギュッと握った時は、感動したな。うろ覚えだが、すごく嬉しかったことは憶えている。要は三歳くらいだったが、一緒に遊ぶどころか、まともに顔を合わせたことも数えるほどだったから、弟というよりも母さんの子供って認識だった」
兄さんは膝の上に肘を立て組んだ両手に鼻先を押し付ける。