楽園 ~きみのいる場所~
「小さい頃のお前は、俺を『にー』と呼んで、よく抱っこをせがんでいたよ。それが、お前が幼稚園に通い出してしばらく経った頃、お前とはもう会えないと父さんに告げられた。理由を聞いても答えてもらえなかったが、成長するにつれてこれで良かったんだと思うようになった。元気いっぱいのお前を、こんな家に閉じ込めたくはなかった。まぁ、結局、お前に全部押し付けて、俺は逃げたんだけどな」
自虐的な笑みを浮かべる兄さんに、胸が痛む。
ずっと明堂貿易の後継者として生きてきた兄さんが、その立場を捨てるなんてどんなに苦しかっただろう。
それでも、兄さんは愛する女性の手を取った。
それに比べて俺は――!
情けない。
が、だからと言って、楽を諦めて会社のために生きる気になどなれない。
「会社に戻れよ、兄さん。お家騒動でしばらくは大変だろうけど、何もせずに会社が人手に渡ったり潰れたりするのをニュースで見るよりはずっといい。俺も……出来ることはするから」
「……」
兄さんは目を閉じて項垂れ、動かない。
パタパタと慌ただしい足音が近づいて来て、俺は音の方向を見た。
奥からやって来た看護師が受付で何かを聞いている。それから、待合に向かって声を上げた。
「明堂萌花さんのご家族の方! いらっしゃいますか!?」
俺と兄さんが同時に立ち上がる。
「はい。明堂萌花は……妻です」
こんな状況にもかかわらず、萌花を妻だと言うに迷った。
「先生からのお話があります。こちらへどうぞ」
俺と兄さんは顔を見合わせ、足早に彼女の後に続いた。
萌花の子供は、死産だった。
それも、恐らく昨日、一昨日には心臓が止まっていたのではと、医師は言った。
意識を取り戻した萌花にも聞いたが、言われてみれば昨日は胎動を感じなかったらしい。
要に突き飛ばされて出血したのが直接の原因ではなかったが、結果として陣痛誘発剤を使っての普通分娩となった。
こんな状況でも、萌花は「痛くないようにしてよ!」などと無理を言っていた。
妊娠後期の突然死は珍しいことではなく、原因も不明なことが多いという。
それでも、子供が亡くなったことを喜んだり、子供を社長夫人になるための道具のように扱っていた萌花をなじる気にはなれなかった。
だからといって、出産時に手を握っている気にもなれない。
医師の話の後で、俺は兄さんにみちるさんのお腹の子が元気に動いているか確認して欲しいと言った。
怖かった。
兄さんも同じ気持ちだったらしく、すぐさま彼女の元に走って行った。
翌日。
萌花は男の子を出産した。
萌花が子供を抱くどころか、見るのも拒んだと聞き、せめて俺だけでもと、タオルにくるまれてトレイに載せられた子供の顔を見た。
ここが要に似ているとか、萌花に似ているとか思うほどマジマジとは見れなかった。
可哀想な子だと、思った。
それだけだった。