楽園 ~きみのいる場所~
 わざと、『声が』と言わなかった。

 彼女がどんな反応をするか、見てみたかったから。

 そして、彼女は俺の想像通りの反応(リアクション)をした。

 顔を真っ赤にして、唇を震わせて、それを見られまいと俯いてしまった。

 そんな彼女が可愛くて、ムズムズするのは足の裏だけじゃなく、耳朶をくすぐられているような感じにさえなる。

「ごちそうさまでした」

 俺の声に、ようやく彼女は顔を上げた。

「コーヒー、もう一杯お願い」

「あ、はいっ!」

 勢いよく立ち上がり、楽は俺のカップを持って台所に行く。

 俺は彼女の後姿を見て、この足が動けば、と思った。

 ふっと、カウンターの上の卓上カレンダーが目に入る。楽が買って来て置いたものだ。

「あ」

「え?」

 俺の声に、楽が振り返る。

「今日って、何日だっけ?」

「十二日ですけど」

「……そっか」

「どうかしました?」

「うん……」

「……?」

 彼女が熱いコーヒーが入ったカップを俺の前に置き、空の皿をシンクに下げる。

 リビングの奥の和室に目を向ける。彼女には入らないように伝えてある。掃除の必要はないから、と。どうしてそう言ったのかは自分でもわからない。

 まだ許せない気持ちが残っていたからかもしれない。

『明堂さんがこの家を帰る場所に選んでくれて、お母様も嬉しいでしょうね』

 さっきの、楽の言葉を思い出す。



 本当にそうだろうか……?



「頼みが……あるんだ」

 コーヒーカップが二つ載っただけのダイニングテーブルを丁寧に拭き上げる楽に、言った。左手を持ち上げ、人差し指を伸ばして和室を指さす。

「あの部屋の掃除、してくれないか」

「……いいですよ?」

 楽がいそいそと和室の襖を開けた。

 長いこと閉じられたままの狭い空間からは、かび臭さや乾いた畳の匂いがした。

「汚くて悪いんだけど……」

「これ……、お祖母様とお母様の?」

「……うん」

 その部屋は、元はばあちゃんの部屋で、仏壇があった。漆塗りの黒光りした、昔ながらの重々しい仏壇。俺が生まれる前に亡くなったじいちゃんは長男ではなかったから、仏壇にはじいちゃんとばあちゃんと母さんの位牌と写真が並んでいる。

 母さんは死ぬ前、家中を片付けていた。電化製品と俺の私物以外、全て。だから、その和室にあるのは仏壇と、アルバムなんかの思い出の品が入った段ボールが数箱だけ。

 楽が部屋の中に消え、カラカラカラと窓を開ける音がした。風に押し流されて、かび臭さがリビングに漂う。

「先に和室(ここ)を掃除しちゃいますね」

「軽くでいいから」

「はい」

 楽が洗面所からバケツや雑巾を持って和室の掃除を始めた。

 俺はコーヒーを飲み終わるまで、その様子を聞いていた。

 雑巾を絞る音、畳みを拭く音。時々、楽が何か、おそらく段ボールにぶつかって、「わっ」とか「いたっ」とか呟く。

 コーヒーを飲み終えた時には、かび臭さは洗剤の匂いにかき消されていた。

 三十分ほど経っただろうか。

 楽が和室から顔を出した。

「掃除、終わりました」

「ありがとう」

「手を、合わせてもいいですか?」

「え? ああ、うん」
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